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ブログ - 太宰府 梅園菓子処 - 太宰府天満宮御用達の和菓子

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観世音寺なる寺を逍遥すなり

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年11月14日(土)

 太宰府天満宮から西に少々離れたところに都府楼と呼ばれる遺跡があります。またの名を都督府跡ともいいます。その東側には観世音寺という由緒ある古刹がひっそりと佇んでいます。Wikipediaではその創建を天平18年(746年)としていますが、出土した創建瓦が老司1式と呼ばれるものだそうで、そこから推測するとDC7世紀末の創建という説もあるようです。

 

 天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈るために建立したという説が一般的です。この斉明天皇の公的な陵は奈良県の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)というところだそうですが、実は愛媛県今治市の朝倉という場所に斉明天皇の供養塔があるのです。斉明天皇は筑紫の朝倉で崩御なさったので筑紫に供養塔があるならば理解できますが、今治市の朝倉にひっそりと佇んでいるところが実に不思議です。

 

 しかし、古代史ファンの筆者としては、このように詳らかではない状態に心躍るものがあります。本当に分からないこともあるでしょうが、意図的に古代の人たちが隠している部分もあろうかと思います。英語で発見することをdiscoverといいますが、まさに覆い隠されていたものが剥がれるという意味で発見なのでしょう。古代の人たちが知恵を絞って敢えてあやふやにしているものを物証や仮説で推理して解き明かしていく楽しさ。これが古代史の面白さといえるかも知れませんね。ある意味、現代人と古代人の知恵比べといった感じです。もちろん、プロフェッショナルな方々のお仕事の邪魔をするつもりはありませんので個人的に楽しんでいる感じですが。

 

 さて、平安時代後期の白河院政期に成立した物語『大鏡』の中にこのような一文があります。

筑紫におはします所の御門固めておはします。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、又いと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して作らしめ給へる詩ぞかし、

 

 都府楼纔看瓦色

 観音寺只聴鐘聲

 

(大意)菅原道真公は左遷先の筑紫でお住まいになられているお屋敷の御門を固く閉ざしていらっしゃいます。大弐(太宰府政庁の次官級の階級)の居所とはかなり離れていますが、太宰府の楼門の瓦などは無意識に自然とお目にとまります。また、お屋敷のごく近くには観音寺というお寺がありましたので、その観音寺の鐘の音をお聞きになってお作りになられた歌です。

 都府楼の建物の瓦を、わずかに眺めるだけ

 観音寺の鐘を、ただ聞くだけ

 このように観世音寺は平安の頃から観音寺とも呼ばれていた様子がわかります。大変に古いお寺なのですが、何度か火災に遭っており創建当時の建造物ではありません。また、このお寺の梵鐘は国宝となっておりますが、九州国立博物館の方に預けられているのか今現在はここにはないようです。この梵鐘と兄弟の鐘が妙心寺の鐘ということでこの辺りの情報も心躍るものです。

 

 また、弘法大師が二年の入唐を終えて博多にご帰国の折、しばらく滞在なさっていたのもこの観世音寺です。現在は臨済宗の寺院ではありますが、日本で初めての加持を弘法大師がこのお寺でなさっていたのかも知れません。ともあれ、中大兄皇子や大海人皇子が感じ、弘法大師が感じ、菅原道真公が感じたこの観世音寺の空気をぜひ体感してみてください。お帰りの際にはぜひ太宰府天満宮にもご参拝いただき、参道に並ぶ数々の名店にてお買い物をお楽しみください。もちろん、梅園菓子処で太宰府名物うその餅をご購入いただけましたらこれにすぎる喜びはありません。

 

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今朝方、少し境内の紅葉の具合を覗いてみた時の一葉

 

鬼滅の刃で脚光を浴びる竈門神社

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年10月20日(火)

 太宰府天満宮の裏手にそびえる宝満山。その山麓に竈門神社(下宮)があります。その竈門神社が人気漫画の『鬼滅の刃』の聖地として昨年くらいから脚光を浴びています。Huluで視聴できたので今年の初めくらいに一気に観ました。ぐいぐいと物語の引き込まれていきました。公式アナウンスはないにもかかわらず、竈門神社がなぜ鬼滅の刃の聖地と見なされているのかは既にネットにたくさんの情報があがっているのでそちらに譲るとして、今回は『鬼』と『玉依姫』にスポットを当ててみたいと思います。

 

 鬼とはなにか

 辞書で調べると『仏教、陰陽道 (おんようどう) に基づく想像上の怪物。人間の形をして、頭には角を生やし、口は横に裂けて鋭い牙 (きば) をもち、裸で腰にトラの皮のふんどしを締める。性質は荒く、手に金棒を握る。地獄には赤鬼・青鬼が住むという』とあります。一般的に私たちが連想するような恐ろしい形相の化け物です。しかし、ちょっと視点を変えると面白い話も出てきます。

 

 たとえば、吉備地方の温羅(うら)も鬼とされています。この温羅は製鉄技術を持った鬼(金棒を持っている)のことです。この温羅が吉備一帯の支配していたところ、苛烈な治世に領民が困り果て大和朝廷にその窮状を直訴したそうです。これに応じて、大和朝廷から討伐軍が差し向けられ温羅は平らげられたという伝承が残っています。

 

 福岡県久留米市大善寺玉垂宮の鬼夜(おによ)というお祭りにも鬼が出てきます。ごくごくシンプルにいうと、表のシナリオとしては「桃梅沈淪(うすらりんちん)が反抗した。そこで藤大臣が軍勢を差し向けてその者を捕らえて首を刎ねた」というものです。しかし、進行していく祭礼そのものはそんなシナリオではなく、どうも地元の民たちが鬼を守って落ち延びさせるような筋書きがあるようです。また、太宰府天満宮の『鬼すべ』にも鬼が出てきます。ここでは鬼を討伐して鬼が降参してめでたしめでたしという流れです。このような歴史の隙間から垣間見えるふとした『匂い』は大変にロマンを掻き立てられます。

 

 鬼といえば、想像上の化け物という視点は当然にありますが、裏側から覗いてみれば、先住民や被征服民の影がちらちらと見える場合もあるわけです。この辺りが歴史の面白さでもあります。

 

 竈門神社の主祭神は玉依姫

 玉依姫は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)との間に子供をもうけられ、そのひとりが神武天皇です。つまり、初代神武天皇の生母となります。しかし、同時に鵜葺草葺不合命を養育した養母でもあります。

 

 どういうことかと言いますと、山幸彦として知られる火遠理命(ほおりのみこと)は海神の娘の豊玉姫と結婚して豊玉姫は懐妊しました。しかし、天津御子の子を海中で生むわけにはいかないということで、先に陸に戻した火遠理命に「海辺に鵜の羽を萱にして産室を作っておいて欲しい」と頼みます。

 

 そのあと、約束通りに火遠理命のところにやってきた豊玉姫は「赤子を生み落とすまでは決して中は見ないで欲しい」と頼み産室に入りました。しかし、お約束通りに、火遠理命は産室を覗いてしまいます。そこには鰐(あるいは龍)が這いずり回っていたので、恐ろしさを感じて火遠理命は逃げ出してしまいました。

 

 元の姿に戻って出産をしていたところを見られた豊玉姫は恥じて再び海の中へと帰っていきました。しかし、それでは赤子の養育が出来ません。そこで、妹である玉依姫を火遠理命にところに差し遣わして鵜葺草葺不合命を養育させました。まさに、玉依姫は海の神様の眷属でもあるわけですね。海の神様の眷属が山の中に祀られているのも興味深い話です。

 

 竈門神社へは太宰府駅前からコミュニティバス「まほろば号」が運行しています。所要時間は約10分、料金は100円となっています。健脚の方は徒歩で40分といったところです。春は桜の名所、秋は紅葉の名所でもあります。お参りの後は、ぜひ太宰府天満宮参道にもおいでいただき、梅園菓子処も覗いていただくと幸いです。

 

 

 

  

太宰府を囲む謎の土塁

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年09月13日(日)

 福岡県筑紫野市で土塁状の遺構が確認された前畑遺跡。古代大宰府の防衛ラインかということで歴史ファンの注目を集めているようです。産経新聞のニュースを簡単にまとめてみました。

 

1.前畑遺跡から発見された土塁状の遺構

  平成27年10月、筑紫野市にある前畑遺跡から丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構が発見されました。この土塁状遺構は確認されたところで長さ390メートル、さらに南へ伸びていることが分かっているそうです。前畑遺跡そのものは弥生時代から古墳時代の遺跡だとされています。

 

2.土塁は2層からなり上層は版築(はんちく)工法で築かれていた

  版築というのは土と砂を交互に積み重ねて突き固める工法のことで、同じ版築工法で作られた遺跡として大宰府防衛のために築かれた水城や大野城などが知られています。

 

3.東手より寄せる敵からの防衛を意図

  東側が急斜面となっていることから、東より寄せ来る敵から防衛する意図があるとされています。

 

4.国内初の羅城の可能性も

  羅城とは首都を防衛するために都市をまるごと城壁で囲んだものだとされています。日本では羅城門のように門の名前としてのみ使用されているようです。ですから、もしこれが羅城だとすれば国内初の発見かということで歴史家も注目しているのだそうです。

 

5.いったい何を守っていたのか

  これがもし本当に羅城だとすると、筑後川、御笠川、宝満川、神籠石群、水城、羅城と十重二十重の守りで敵国から大宰府エリアを防衛していたのかも知れませんね。しかし、これだけ大規模な防衛ラインを地方の出先機関のために築くのかというのも疑問の残るところです。通常、そこを占領されたら降伏という場所を守るために大規模かつ重層的な防衛ラインを準備するものだろうと思います。当時の大宰府がいくら重要な役割を果たしていた機関だとしても首都圏である近畿からは遠く離れた出先機関です。

 

 加えていうならば、北部九州など素通りすればこの防衛ラインは意味をなしません。仮に朝鮮半島や唐の沿岸部から首都である近畿地方を攻略しようと思えば中国地方沿岸部から上陸して中国地方を南下すれば良いだけの話です。わざわざ出先機関の大宰府と一戦を構える必要はありません。あるいはたくさんの軍船で玄界灘から下関を通って瀬戸内海に進んでいくという手もありますが、この場合でもわざわざ大宰府と事を構える必要がありません。

 

 しかし、現実的にはこの羅城と思しき防衛ラインは大宰府エリアを防衛するように堅固に城壁を形作っているわけです。ひょっとして、大宰府は単なる出先機関ではなかったのではないか。単なる出先機関ではなかったとするといったいなんだったのか。そんな想像をしながら秋の太宰府を散策するのも楽しいものです。

 

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