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ブログ - 太宰府 梅園菓子処 - 太宰府天満宮御用達の和菓子

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歴史探訪 岩屋城 - ちょっと長い

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2021年01月04日(月)

 古代からその立地ゆえに太宰府は歴史がミルフィーユ状態で積み重なってきているわけですが、戦国期にも大きな注目を浴びた場所のひとつです。室町末期に周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六か国の守護を務めた大内義隆が陶隆房の謀反によって滅んだあと、古来からの貿易港である博多を擁する筑前は財力を生み出す要衝として見なされていました。

 

 そんな中で力をつけてきたのが豊後府内を拠点とする大友宗麟。もともと鎌倉御家人という血統の良さもあり、豊後在郷の国人衆を麾下に収めて力をつけ北部九州を席捲していきました。これに対して、中国地方の覇者である毛利勢(毛利元就、吉川元春、小早川隆景)らも筑前博多を手に入れようと触手を伸ばします。このような緊迫した情勢の中、大友宗麟は加判衆と呼ばれた側近の武将たちを筑前一帯の城に分散配置してエリアとして筑前を押さえていました。

 

 大友宗麟が筑前一帯を押さえるための拠点としたのが、糸島の柑子岳城(糸島市)、早良の安楽平城(福岡市早良区脇山)、那珂川の鷲ヶ岳城(那珂川市)、新宮の立花山城(新宮町)、太宰府の宝満山城(太宰府市)の五城でした。宝満山城には支城として岩屋城がありました。立花山城の城督は猛将と恐れられた戸次鑑連(べっき あきつら)、またの名を立花道雪(たちばなどうせつ)。そして宝満山城の城督がこちらも戦国無双の高橋紹運。この二人の部将が中心となって、攻め寄せる毛利軍や力を伸ばしてきた佐賀の龍造寺軍と戦っていたのです。

 

 しかし、毛利勢は東部戦線で織田信長麾下の羽柴軍と戦闘状態となり、西部戦線であった博多攻略は断念せねばならなくなります。さらに大友宗麟は滅亡した尼子氏の残党を陰から支援して毛利が筑前から完全に手を引くように調略します。その結果、大友宗麟は筑前一帯を完全に掌握するに至ったのです。

 

 この頃から、佐賀の龍造寺隆信、朝倉の秋月種実、薩摩の島津義久らが戦国武将として力を増して来ます。龍造寺は背振山を越え北上して筑前を狙い、秋月は頻繁に宝満山城を攻めて太宰府天満宮まで焼き討ちにしました。島津とは日向の耳川合戦にて手痛い敗北を喫して次第に大友宗麟の筑前筑後への支配が弱体化していったのです。

 

 この中で抜きん出てきたのが薩摩の島津義久でした。島津北上を邪魔する龍造寺隆信を沖田畷の合戦で討ち取り、怒涛の勢いで北上を始めます。これに危機を感じた大友宗麟はすでに関白となっていた秀吉に臣従して援軍を請います。島津義久は島津忠長と伊集院忠棟に筑前攻略を命じます。島津軍は併呑した九州一円の国人衆の軍団を取り込み、宝満山城と立花山城を陥落させようと攻め寄せます。

 

 大友宗麟からの援軍もなく孤立無援の宝満山城を守るのは高橋紹運。紹運は支城である岩屋城を前線と定めてここに籠城。実子で立花家に養子に出した立花宗茂は後ろ備えとして立花山城に立て籠もり島津軍に備えます。観世音寺を本陣とする寄せ手の島津軍はざっと5万余の軍勢、岩屋城にてこれを迎え撃つ高橋軍は763名。多勢に無勢の戦況の中、秀吉軍師の黒田官兵衛からも使者が出され、岩屋城を退き立花山城へ合流されたいとの勧告を受けますが、これを丁重に断ります。

 

 島津軍が十重二十重と岩屋城を取り囲み、いよいよ岩屋城への城攻めが始まりました。しかし、岩屋城の守りが堅固な上に、決死の覚悟の高橋軍の抵抗は激しく、島津軍はなかなか岩屋城を攻め落とせません。攻め寄せるたびに島津軍には大きな損害が発生するようになっていきました。途中、島津義久は何度か降伏勧告を高橋紹運に行いますが、これも丁重に断ります。黒田官兵衛は岩屋城落城間近との急報を秀吉に送りますが、まだ島津征伐の準備が整っておらず軍勢は間に合いそうにあいません。

 

 そのような中、とうとう岩屋城の水の手が切られることとなり城中では水不足が深刻となります。地元に伝わる伝承では、ひとりの老婆が島津軍に岩屋城の水の手を教えたという話も伝わっています。これ以上の籠城継続は不可能と見た島津軍は岩屋城に対して総攻撃を仕掛けます。各方面の砦が落とされ歴戦の部将が討ち死にする中、高橋紹運もみずから自刃して果て、岩屋城は落城しました。

 

 島津軍は岩屋城を落城せしめたのち、急ぎ立花宗茂が籠る立花山城へと軍を転進させます。こちらも十重二十重と取り囲み立花宗茂に対して降伏勧告を再三行います。主家であった大友宗麟の本拠地である豊後府内も島津別動隊から攻撃され落城。万事休すという時に、やっと秀吉軍先遣隊が豊前に到着。秀吉軍まもなく到着の知らせを受けた島津軍はすぐに立花山城の囲いを解いて撤退を始めます。以後、総兵力20万の秀吉軍が押し寄せるに至って島津軍は次第に劣勢となり、義久は降伏しています。

 

 この時、立花宗茂は秀吉からの覚えもめでたく西国無双と称えられ秀吉の直臣に取り立てられて大名となりました。この立花家はのちに柳川城を与えられ紆余曲折の後、明治まで大名として残るに至りました。

 

 2017年、大徳寺大慈院で立花家主催による「立花宗成公ご生誕450年記念茶会」が開催され、梅園菓子処の宝満山干菓子(よろつよ)を使っていただけたのも時空を超えた不思議なご縁を感じたところです。実は筆者の先祖は安楽平城の城督であった小田部紹叱の家臣で、おそらく立花道雪や高橋紹運らとともに戦陣を疾駆していただろうと思われます。450年の時空を超えた不思議なご縁を感じた次第です。

 

 以上、ちょっと長くなったのですが、太宰府近郊を語るにおいて岩屋城の攻防戦は外せないトピックでもありますので、記録として残しておきたいと思います。なお、内容としてはかなり端折っています。本当はまだまだ細かく精緻に書いていきたいのですが、それだと読む人がいなくなってしまいますので、心を鬼にして敢えてシンプルな筋書きにしています。正直なところ、筑紫廣門や秋月種実などとの絡みはもっとおもしろいところなのですが、またの機会に致します。

 

 

 11/18大慈院イベントレポート②お茶席のお菓子(立花万起子様執筆の記事)

 

 岩屋城(大変詳細に書かれていてとても参考になります)

 

福岡県北部で三社詣りするならここですばい

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年12月30日(水)

 令和2年も残りわずかということで令和3年を新しくお迎えするため太宰府天満宮を含めて三社詣りや神社巡りなどいかがでしょうか。といってもそれぞれのお宮は正月の大渋滞は間違いなし。とても1日では無理かも知れませんので、一応五社をご紹介しておきます。魂ふるえるところにお参りください。

 

太宰府天満宮 太宰府市 Dazaifu Tenman Gu

 福岡市から南に下ったところにあるのが太宰府市。その名前の由来になったのが太宰府天満宮ですね。押しも押されもせぬ全国天満宮の総本社でして学問の神様である菅原道真公が祀られています。ご本殿の奥へと進めば自然に明鏡止水となるこの土地、おそらくは太古の昔からなんらかの信仰の対象地ではなかったのかと邪推しております。

 

福岡平野(福岡市があるところ)と筑後平野(久留米市や柳川市があるところ)は背振連山で南北に分断されているのですが、この太宰府市と目と鼻の先の二日市あたりが平地となっており、ここで南北に繋がっているのです。つまり、この太宰府周辺は政治的にも軍事的にも要衝だったことは間違いありません。ちなみに、正月三ヶ日、車はあまりおすすめできません。どうしても車でお越しの際は朝駆けをお勧めいたします。

 

筥崎宮 福岡市東区 Hakozaki Gu

 元寇襲来で一躍名をはせた筥崎宮。亀山上皇の敵国降伏の扁額が堂々とかかる山門に魂ふるえる由緒ある神社です。戦の神様である八幡様を主神としているだけに勝負事の祈願にも滅法強い神社となります。

 

公式レコードでは「延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神とした」とされていますが、いやいやもっと古いでしょうとまたもや邪推。玉依姫命なら海幸彦さんや山幸彦さんと同世代なので縄文末期くらいまでいってしまうのではと個人的には妄想しています。ここからほど近い志賀島の志賀海神社には鹿の角がたくさん祀ってあるのですが、縄文期には鹿の角は釣り針のテッパン。志賀海神社が龍神様と関係が深いのも首肯できるところ。あくまでも個人の妄想ですので、公式には延喜21年です…。

 

香椎宮 福岡市東区 Kashii Gu

 公式レコードでは仲哀天皇九年(200)ということなので弥生時代中期でしょうか。古くは橿日宮と記されてまして「かしひ」と呼んでいたのでしょうね。弥生中期となるとこれはもう神話の時代という感じです。

 

しかし、同じ頃、大陸では黄巾党の乱が起こっていますのでこれから三国鼎立へと向かって歴史が進む頃合いです。つまり、魏呉蜀が天下の覇権を巡り争った三国志の時代となります。魏の皇帝であった曹叡(曹操の孫)から邪馬臺国の女王・卑弥呼に対して与えられたのが親魏倭王の称号。これが西暦238年ということですからちょうど香椎宮が出来て38年後、いや待てよ。この頃は神功皇后では……。卑弥呼どこいった?? ともあれ、古いお宮ということは間違いありません。

 

宮地嶽神社 福津市 Miyajidake Jinja

 嵐の光の道で一躍全国区となったこちらも古い神社です。ご祭神は神功皇后…、ひ、ひ、卑弥呼どこいった……。それはさておき、こちらの神社には日本一の大きさを誇る横穴式石室が残る巨石古墳があることでも有名です。6世紀末頃の古墳といいますから、甕棺墓の頃とは隔世の感があります。その石室からはお宝がざくざくと出てきまして、そのうち20点が国宝指定。

 

公式サイトには『御創建以来1600有余年を経て、本殿の御遷座80年の節目に、宮地嶽神社は、北部九州王朝の聖地として栄えたこの地にふさわしい…』と記載されており、この地が古来から大変重要な場所であったことを示しています。ちなみに、本殿のうしろには奥宮八社がありまして不動明王、龍神様、地蔵菩薩などをお祀りしています。神社と仏教のハイブリッドという珍しい形ですが、これは本地垂迹といって昔から日本人にとっては馴染みのある形。神社と仏教が分離されたのは明治以降となるのです。古い信仰の形がどこか新鮮な奥宮八社もおすすめです。

 

宗像大社 宗像市 Munakata Taisha

 こちらもかなり古く由緒ある神社となります。ご祭神は宗像三女神といいまして、天照大御神様と須佐之男命の誓約(うけい)で誕生なさっているところからしても、その始原は相当に古くもはや日本神話レベル。ですからどうなのでしょうか…弥生初期とかまで遡るのかも知れませんね。

 

加えてこの宗像大社のすごいのは海の正倉院と称される沖ノ島を擁すること。古代の信仰の在り方をそのまま残した沖ノ島には今でも神職の方が交代で当直をなさっているのだとか。宗像大社の横にある神宝館も圧巻で国宝がごろごろ。なんと8万点の国宝がこの神宝館に収蔵されているのです。宗像大社と宮地嶽神社、比較的に近いのでアクセスしやいかと思います。本殿裏手からちょっとした小山を登っていった先にある高宮祭場も古き時代の神代を感じさせてくれます。ぜひ立ち寄ってみてください。

 

以上、福岡県北部の由緒正しき神社のごく一部をご紹介してみました。みなさまの神社参拝ラリーや三社詣りなどの参考になさってください。この他にもよい神社仏閣がたくさんあるのですが、それはまたの機会に。それから、上記の解説は特に断りのない限り、あくまでも筆者の個人的主観ですので、その辺りも含めてゆるく楽しんでいただければと思います。太宰府天満宮ご参拝の折には、どうぞお帰りに梅園菓子処へもお立ち寄りください。お正月には限定の商品なども揃えております。みなさまのお越しをお待ちしております。

 

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五月の新緑美しい頃の太宰府天満宮楼門 

 

 参考ウェブサイト

 太宰府天満宮公式サイト

 筥崎宮公式サイト

 香椎宮公式サイト

 宮地嶽神社公式サイト

 宗像大社公式サイト

 

維新の策動地としての太宰府

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年12月25日(金)

 今日は加藤司書傳という復刻本から太宰府に関するところを口語訳してご紹介してみたいと思います。文語調独特の言い回しや難解な語句が並びますので、敢えて意訳しているところもあります。雰囲気を楽しむ感じでお読みいただければと思います。

 

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 三条公は居室においても常に竹馬に乗って稽古に励んでいました。五卿の中でも、四条公は特に馬術に長けていらして、颯爽たる御姿で太宰府の町々を練っていました。その後、四条卿は陸軍少将となって大阪師団長を務めたことからも、その馬術がいかに秀でていたかが分かるというものです。

 

 当時、勤皇の志士はことごとく五卿の下に集まってきました。それらの志士が宿とした場所は、勤皇の志の篤い松屋孫兵衛の屋敷であって、土佐の奇傑と称された坂本龍馬もやってきました。同じく土佐藩の中岡慎太郎もやってきて、2年11ヶ月の五卿太宰府滞在中、この地にあって五卿に接して五卿のために東奔西走して勤皇のために尽くしました。

 

 日本海軍の代表者である坂本龍馬、陸軍の代表者たる中岡慎太郎、五卿を中心に影が形に添うようにしっかりとつき従っていた土方楠左衛門久元伯爵も2年11ヶ月の間、五卿に随身して加藤司書公と常に連携を取り、加藤司書公が切腹の際には五卿の助命使として早馬をもって天福寺に駆け付けました。しかしながら、時すでに遅く自刃の後ということでたくさんの恨みを飲み込んだのでした。

 

 西郷吉之助も折々松屋にやってきて、加藤司書公の策動による薩長連合のため、長州藩代表の高杉晋作や加藤司書と頻繁に会合をしていました。僧月照は西郷と一緒に太宰府に来た時、松屋に泊まって

 言の葉の花をあるじに旅寝する

  この松陰に千代も忘るな

 という和歌を宿の主人の松屋孫兵衛に与えました。王政復古の悲願がまだまだ成就できぬことを悟って、西郷とともに薩摩の錦江湾に身を投げたわけですが、高齢だった月照は錦江湾の波間に消え去り、命が助かったのは西郷だけだったという事件はこの歌を詠んだ直後のことです。

 

 <中略>

 

 こうして加藤司書の尽力によって五卿は太宰府を拠点として、各地の勤皇の志士たちは各方面から太宰府に集まってきて、王政維新の一大震源地となってこの地は大変に栄えたのです。そこで幕府は大目付の小林惇六郎を福岡藩に派遣して太宰府の五卿奪還を試みました。

 小林は30人ほどの屈強な幕臣を連れて福岡表へやってきました。これを知った福岡藩の佐幕派たちは待ちかねたように膝を打ってやはりまだまだ幕府の力が衰えてはいないと大喜びでした。これを機会に幕府に味方している公卿の親書を藩主の黒田長溥公にお示しして、一気に勤皇党を潰してしまおうと考えました。

 

 加藤司書は家老職を辞して閉門となり、幕府大目付小林惇六郎は福岡藩の勤皇党に対して圧力を加えて、さらに二日市に転進してここを拠点として五卿の奪還を計画しました。小林は「私の力で五卿のみなさまを復官させましょう」と甘言を弄して五卿をおびき出し、その途中で五卿を殺害しようと企てたのです。

 

 五卿を守る薩摩、久留米、佐賀、福岡、熊本の五藩の藩兵たちではありましたが、中には佐幕派もあれば勤皇派もありという感じでバラバラの寄せ集めでした。その中でも福岡藩は加藤司書が家老職を辞した結果、勤皇派が力を失って佐幕派が力を盛り返していた状態でした。

 土佐藩の藩兵は本願寺に陣取って、その他の藩の兵たちも「五卿は渡すわけにはいかぬ」と幕府側と対峙する状況となったのでした。

 五卿は大目付の小林惇六郎が来藩したことでこれは危ないと気づきましたが、ここからどこかに逃げることや、江戸表に送られることなどは潔くないとして、あくまでもこの場に留まって忠節に殉じて太宰府の土となるまでと決心を固められました。このようにして大目付小林惇六郎が虎視眈々と機会を伺う中、太宰府に詰めかけた勤皇派はみな奮起して幕府側と対峙したのでした。

 

 <中略>

 

 小林惇六郎は幕臣30名を率いて太宰府天満宮参拝を理由として太宰府において示威行進を行いました。この報告を受けた加藤司書は早速に五卿を護衛しようと思い立ちますが、家老職を解かれ閉門蟄居の身の上なので為す術がない状態でした。

 

 薩摩藩の大山格之介はただちに36名の砲兵と大砲3門を率いて太宰府に前進し「たとえ幕府の大目付が来られようとも五卿に指一本触れさせぬ」と空砲を二日市の小林の陣営に向けて撃ち放ち威嚇射撃を行いました。その後、大山はひとりで小林を訪ね「三条公以下五卿の太宰府滞在は将軍様の命令によって尾張総督が決定なされたことです。将軍様の命令なく小林殿が勝手に大目付の分限で五卿の身を移そうとするのは不埒な行為と断じざるを得ません。あるいは、これがたとえ将軍様の命令であっても薩摩藩として断じて五卿を引き渡すわけには参りません。五卿はすでに太宰府の土となろうと固く決意をなさっておられます。もし力づくで奪還せんとお考えであればどうぞなさってください。私たちには三門の大砲がありますので、命令一下、一撃の下に打ち破ってご覧にいれましょう」と談判を試みました。

 

 これにはさすがの大目付小林も辟易として「では、三条公以下五卿にご挨拶のみさせていただこう」となり、小林は延寿王院の正門から入ろうとしましたが許されず裏門から屋敷へと入り、五卿と面談をなされました。この際も五卿の傍では勤皇派の志士らが取り囲み、何かあれば一刀のもとに斬り捨てようと刀の鯉口を切って身構えている状態でした。そのため、小林はとうとう為す術もなく引きさがって延寿王院をあとにしたのでした。

 

 このようにして太宰府は加藤司書の思惑通りに五卿を中心とした勤皇王政復古の一大震源地となり、黒田嘉右衛門や田中光顕伯爵など京都と太宰府の間を往復しては五卿の精神を京都に伝え、勤皇派の志士たちと連携をとり、五卿らは太宰府に留まること2年11ヶ月の長きにわたったのでした。

 

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 まだまだ記述はあるのですが、あまりに長いので今日のところはこの辺りで。また機会をみてご紹介させていただこうと思います。

 

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延寿王院の門

維新胎動地のひとつでもあった太宰府

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年12月12日(土)

 太宰府と言えば太宰府天満宮ということで全国的に大変有名な観光地ですが、実は、明治維新の胎動著しい場所であったことはあまり知られていません。八月十八日の政変により尊王攘夷派の公家方が京都を追放になった事件がありました。

 

 三条実美(さんじょう さねとみ)、四条隆謌(しじょう たかうた)、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、壬生基修(みぶ もとおさ)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)の七卿で、世に七卿落ちといわれているものです。そのうち錦小路頼徳が亡くなり、澤宣嘉は生野で平野国臣とともに兵を挙げましたので、五卿と呼ばれるようになります。

 

 この五卿は尊王攘夷派のシンボルでもありましたので、長州藩にそのまま留めおくのは危険と幕府が判断し、他藩に身柄をお移しすることとなりました。当初は五卿をばらばらに五藩に分けて管理しようとしたのですが、福岡藩中老で勤皇派の領袖であった加藤司書の働きにより、福岡藩で五卿全員をお預かりすることとなり、慶応元年の正月に太宰府の延寿王院に五卿がお入りになられたわけです。

 

 それから、筑前、筑後、薩摩、肥前、肥後の五藩の藩兵が五卿を衛ることとなったのですが、尊王攘夷派のシンボルである五卿が太宰府にいらっしゃるとなれば、多くの尊攘派の志士が当然ながら面会にやってきます。薩摩の西郷吉之助、土佐の坂本龍馬中岡慎太郎、長州の高杉晋作などが太宰府にやってきて五卿と面会したり、志士仲間で話し合い等をしていたようです。もちろん、福岡藩の中老であった加藤司書も何度も延寿王院に足を運び五卿を見舞っています。

 

 現在、梅園菓子処が入っている木造建築物は当時和泉屋白水楼(いずみやはくすいろう)と呼ばれる旅籠でした。この周辺(大町)には太宰府天満宮に参拝する旅客のための旅籠が集まっていたわけですが、和泉屋白水楼もそのひとつでした。そして、集まってくる志士たちも藩ごとに異なる旅籠を利用していたようで、和泉屋白水楼はおもに土佐藩、大野屋は長州藩、松屋は薩摩藩というように分かれていたようです。

 

 土佐脱藩の土方楠左衛門(土方久元はメモ魔だったようで、詳細な日記を書き残していますが、土方の日記にはこの和泉屋白水楼が頻繁に登場します。下記は土方の手記をスクリーンショットしたものです。原本は国立国会図書館デジタルコレクションの回天実記第2集22コマに収録されています。赤枠で囲んだ部分の1行目の井上は井上聞多、伊藤は伊藤俊輔のことを指します。赤枠5行目に大町泉屋とありますが、これが梅園菓子処が入っている建物となります。赤枠の内容としては、井上と伊藤が長崎に行きたいが長州藩士の名義では途中の通行が難しいので薩摩藩士の名義を貸してくれないかと相談に来たというものです。相談の後で泉屋で酒を飲んだという内容となります。

 

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 薩長の歴史は何度も大河ドラマになっていますので詳細を省くとしまして、ここでは福岡藩の勤皇の動きを軽くご紹介しておきます。福岡藩の勤皇派の特色としては加藤司書や黒田播磨のような藩の重役が積極的に勤皇運動を行っていたことにあります。勤皇の志の厚い建部武彦(たけべ たけひこ)や衣非茂記(えび しげき)らを重臣として登用して藩論を動かしていきました。福岡藩第11代藩主の黒田長溥(くろだ ながひろ)公も蘭癖大名と呼ばれるほどオランダから学問や技術を導入していたのですが、尊王攘夷の過激な動きには同調しかねる想いがあったともいわれています。

 

 筑前勤皇党の活動が進み藩論が尊王攘夷へと急速に進むにつれて、黒田長溥公と加藤司書らは次第に折り合いが悪くなってきました。実際、勤皇派の中級下級藩士の中には過激な言動を行う者も出始め、加藤司書らは「過激な行動は慎むように」と何度か注意をしていたようです。しかし、とうとう犬鳴御別館事件をきっかけとして、藩主黒田長溥公は福岡藩内の尊王攘夷派の弾圧に踏み切ります。このまま過激な尊王攘夷に突き進めば、藩が潰されてしまう恐れがあると感じたのかも知れません。慶応元年(1865)乙丑の年の出来事なので、これを乙丑の獄(いっちゅうのごく)と呼びます。

 

 加藤司書と大組の斉藤五六郎が天福寺で切腹。建部武彦と衣非茂記が安国寺で切腹。尾崎惣左衛門、万代十兵衛、森安平の三名は正香寺で切腹。その2日前の23日には、桝木屋の牢獄で月形洗蔵、梅津幸一、鷹取養巴、森勤作、江上栄之進、伊藤清兵衛、安田喜八郎、今中祐十郎、今中作兵衛、中村哲蔵、瀬口三兵衛、佐座謙三郎、大神壱岐、伊丹信一郎、筑紫衛等、あわせて15人が斬首されました。この乙丑の獄で、福岡藩は、維新後に明治新政府へ送り込む人材を一気に失ってしまうこととなりました。

 

 さて、和泉屋白水楼でいつも酒宴を張っていた土佐脱藩の土方楠左衛門の耳にも加藤司書らに切腹の沙汰が下されたことが知らされます。三条実美は加藤司書とも親しくその才を惜しまれて、土方をして早馬を走らせ司書の助命に向かわせます。太宰府から天福寺(博多区冷泉)まで土方が馬を駆って夜道を走っていきます。やっとのことで天福寺門前に着到し、「三条実美様から加藤司書殿の助命の願いでござる。その切腹待たれよ」と門内に声を掛けましたが、門内からは「すでにご立派にお腹を召されました」との返答。加藤司書公は見事にご生害を遂げられたのでした。

 

 毎年10月25日にはこの加藤司書公を偲ぶ法要が博多区の節信院にて行われています。乙丑の獄の関係者のご子孫、福岡藩士のご子孫などが一同に参集しまして、亡き加藤司書公や乙丑の獄で散華された藩士たちの御霊に手を合わせています。

 

 このように太宰府は維新回天の原動力のひとつともなった場所で、当時の建物がそのまま残っておりますので、幕末好きな方にもぜひお勧めしたいところです。弊店では当時の床板や手すりなどをそのままご覧いただけるよう改装しています。また、薩摩藩の定宿であった松屋さんでは維新の庵として喫茶をやっていらっしゃいます(ただ、コロナ禍のため現在はお休みしているようです)。ここには西郷隆盛直筆の書状などが伝わっています。もちろん、当時の建物のまま残っています。松屋さんの向かいには日田屋があり、こちらも外側は当時のまま残っています。ぜひ、幕末の名所めぐりのひとつとして足をお運びください。

 

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平成27年節信院にて行われた法要で撮影 ※終わった後は直会です

 

観世音寺なる寺を逍遥すなり

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年11月14日(土)

 太宰府天満宮から西に少々離れたところに都府楼と呼ばれる遺跡があります。またの名を都督府跡ともいいます。その東側には観世音寺という由緒ある古刹がひっそりと佇んでいます。Wikipediaではその創建を天平18年(746年)としていますが、出土した創建瓦が老司1式と呼ばれるものだそうで、そこから推測するとDC7世紀末の創建という説もあるようです。

 

 天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈るために建立したという説が一般的です。この斉明天皇の公的な陵は奈良県の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)というところだそうですが、実は愛媛県今治市の朝倉という場所に斉明天皇の供養塔があるのです。斉明天皇は筑紫の朝倉で崩御なさったので筑紫に供養塔があるならば理解できますが、今治市の朝倉にひっそりと佇んでいるところが実に不思議です。

 

 しかし、古代史ファンの筆者としては、このように詳らかではない状態に心躍るものがあります。本当に分からないこともあるでしょうが、意図的に古代の人たちが隠している部分もあろうかと思います。英語で発見することをdiscoverといいますが、まさに覆い隠されていたものが剥がれるという意味で発見なのでしょう。古代の人たちが知恵を絞って敢えてあやふやにしているものを物証や仮説で推理して解き明かしていく楽しさ。これが古代史の面白さといえるかも知れませんね。ある意味、現代人と古代人の知恵比べといった感じです。もちろん、プロフェッショナルな方々のお仕事の邪魔をするつもりはありませんので個人的に楽しんでいる感じですが。

 

 さて、平安時代後期の白河院政期に成立した物語『大鏡』の中にこのような一文があります。

筑紫におはします所の御門固めておはします。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、又いと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して作らしめ給へる詩ぞかし、

 

 都府楼纔看瓦色

 観音寺只聴鐘聲

 

(大意)菅原道真公は左遷先の筑紫でお住まいになられているお屋敷の御門を固く閉ざしていらっしゃいます。大弐(太宰府政庁の次官級の階級)の居所とはかなり離れていますが、太宰府の楼門の瓦などは無意識に自然とお目にとまります。また、お屋敷のごく近くには観音寺というお寺がありましたので、その観音寺の鐘の音をお聞きになってお作りになられた歌です。

 都府楼の建物の瓦を、わずかに眺めるだけ

 観音寺の鐘を、ただ聞くだけ

 このように観世音寺は平安の頃から観音寺とも呼ばれていた様子がわかります。大変に古いお寺なのですが、何度か火災に遭っており創建当時の建造物ではありません。また、このお寺の梵鐘は国宝となっておりますが、九州国立博物館の方に預けられているのか今現在はここにはないようです。この梵鐘と兄弟の鐘が妙心寺の鐘ということでこの辺りの情報も心躍るものです。

 

 また、弘法大師が二年の入唐を終えて博多にご帰国の折、しばらく滞在なさっていたのもこの観世音寺です。現在は臨済宗の寺院ではありますが、日本で初めての加持を弘法大師がこのお寺でなさっていたのかも知れません。ともあれ、中大兄皇子や大海人皇子が感じ、弘法大師が感じ、菅原道真公が感じたこの観世音寺の空気をぜひ体感してみてください。お帰りの際にはぜひ太宰府天満宮にもご参拝いただき、参道に並ぶ数々の名店にてお買い物をお楽しみください。もちろん、梅園菓子処で太宰府名物うその餅をご購入いただけましたらこれにすぎる喜びはありません。

 

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今朝方、少し境内の紅葉の具合を覗いてみた時の一葉

 

鬼滅の刃で脚光を浴びる竈門神社

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年10月20日(火)

 太宰府天満宮の裏手にそびえる宝満山。その山麓に竈門神社(下宮)があります。その竈門神社が人気漫画の『鬼滅の刃』の聖地として昨年くらいから脚光を浴びています。Huluで視聴できたので今年の初めくらいに一気に観ました。ぐいぐいと物語の引き込まれていきました。公式アナウンスはないにもかかわらず、竈門神社がなぜ鬼滅の刃の聖地と見なされているのかは既にネットにたくさんの情報があがっているのでそちらに譲るとして、今回は『鬼』と『玉依姫』にスポットを当ててみたいと思います。

 

 鬼とはなにか

 辞書で調べると『仏教、陰陽道 (おんようどう) に基づく想像上の怪物。人間の形をして、頭には角を生やし、口は横に裂けて鋭い牙 (きば) をもち、裸で腰にトラの皮のふんどしを締める。性質は荒く、手に金棒を握る。地獄には赤鬼・青鬼が住むという』とあります。一般的に私たちが連想するような恐ろしい形相の化け物です。しかし、ちょっと視点を変えると面白い話も出てきます。

 

 たとえば、吉備地方の温羅(うら)も鬼とされています。この温羅は製鉄技術を持った鬼(金棒を持っている)のことです。この温羅が吉備一帯の支配していたところ、苛烈な治世に領民が困り果て大和朝廷にその窮状を直訴したそうです。これに応じて、大和朝廷から討伐軍が差し向けられ温羅は平らげられたという伝承が残っています。

 

 福岡県久留米市大善寺玉垂宮の鬼夜(おによ)というお祭りにも鬼が出てきます。ごくごくシンプルにいうと、表のシナリオとしては「桃梅沈淪(うすらりんちん)が反抗した。そこで藤大臣が軍勢を差し向けてその者を捕らえて首を刎ねた」というものです。しかし、進行していく祭礼そのものはそんなシナリオではなく、どうも地元の民たちが鬼を守って落ち延びさせるような筋書きがあるようです。また、太宰府天満宮の『鬼すべ』にも鬼が出てきます。ここでは鬼を討伐して鬼が降参してめでたしめでたしという流れです。このような歴史の隙間から垣間見えるふとした『匂い』は大変にロマンを掻き立てられます。

 

 鬼といえば、想像上の化け物という視点は当然にありますが、裏側から覗いてみれば、先住民や被征服民の影がちらちらと見える場合もあるわけです。この辺りが歴史の面白さでもあります。

 

 竈門神社の主祭神は玉依姫

 玉依姫は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)との間に子供をもうけられ、そのひとりが神武天皇です。つまり、初代神武天皇の生母となります。しかし、同時に鵜葺草葺不合命を養育した養母でもあります。

 

 どういうことかと言いますと、山幸彦として知られる火遠理命(ほおりのみこと)は海神の娘の豊玉姫と結婚して豊玉姫は懐妊しました。しかし、天津御子の子を海中で生むわけにはいかないということで、先に陸に戻した火遠理命に「海辺に鵜の羽を萱にして産室を作っておいて欲しい」と頼みます。

 

 そのあと、約束通りに火遠理命のところにやってきた豊玉姫は「赤子を生み落とすまでは決して中は見ないで欲しい」と頼み産室に入りました。しかし、お約束通りに、火遠理命は産室を覗いてしまいます。そこには鰐(あるいは龍)が這いずり回っていたので、恐ろしさを感じて火遠理命は逃げ出してしまいました。

 

 元の姿に戻って出産をしていたところを見られた豊玉姫は恥じて再び海の中へと帰っていきました。しかし、それでは赤子の養育が出来ません。そこで、妹である玉依姫を火遠理命にところに差し遣わして鵜葺草葺不合命を養育させました。まさに、玉依姫は海の神様の眷属でもあるわけですね。海の神様の眷属が山の中に祀られているのも興味深い話です。

 

 竈門神社へは太宰府駅前からコミュニティバス「まほろば号」が運行しています。所要時間は約10分、料金は100円となっています。健脚の方は徒歩で40分といったところです。春は桜の名所、秋は紅葉の名所でもあります。お参りの後は、ぜひ太宰府天満宮参道にもおいでいただき、梅園菓子処も覗いていただくと幸いです。

 

 

 

  

太宰府を囲む謎の土塁

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年09月13日(日)

 福岡県筑紫野市で土塁状の遺構が確認された前畑遺跡。古代大宰府の防衛ラインかということで歴史ファンの注目を集めているようです。産経新聞のニュースを簡単にまとめてみました。

 

1.前畑遺跡から発見された土塁状の遺構

  平成27年10月、筑紫野市にある前畑遺跡から丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構が発見されました。この土塁状遺構は確認されたところで長さ390メートル、さらに南へ伸びていることが分かっているそうです。前畑遺跡そのものは弥生時代から古墳時代の遺跡だとされています。

 

2.土塁は2層からなり上層は版築(はんちく)工法で築かれていた

  版築というのは土と砂を交互に積み重ねて突き固める工法のことで、同じ版築工法で作られた遺跡として大宰府防衛のために築かれた水城や大野城などが知られています。

 

3.東手より寄せる敵からの防衛を意図

  東側が急斜面となっていることから、東より寄せ来る敵から防衛する意図があるとされています。

 

4.国内初の羅城の可能性も

  羅城とは首都を防衛するために都市をまるごと城壁で囲んだものだとされています。日本では羅城門のように門の名前としてのみ使用されているようです。ですから、もしこれが羅城だとすれば国内初の発見かということで歴史家も注目しているのだそうです。

 

5.いったい何を守っていたのか

  これがもし本当に羅城だとすると、筑後川、御笠川、宝満川、神籠石群、水城、羅城と十重二十重の守りで敵国から大宰府エリアを防衛していたのかも知れませんね。しかし、これだけ大規模な防衛ラインを地方の出先機関のために築くのかというのも疑問の残るところです。通常、そこを占領されたら降伏という場所を守るために大規模かつ重層的な防衛ラインを準備するものだろうと思います。当時の大宰府がいくら重要な役割を果たしていた機関だとしても首都圏である近畿からは遠く離れた出先機関です。

 

 加えていうならば、北部九州など素通りすればこの防衛ラインは意味をなしません。仮に朝鮮半島や唐の沿岸部から首都である近畿地方を攻略しようと思えば中国地方沿岸部から上陸して中国地方を南下すれば良いだけの話です。わざわざ出先機関の大宰府と一戦を構える必要はありません。あるいはたくさんの軍船で玄界灘から下関を通って瀬戸内海に進んでいくという手もありますが、この場合でもわざわざ大宰府と事を構える必要がありません。

 

 しかし、現実的にはこの羅城と思しき防衛ラインは大宰府エリアを防衛するように堅固に城壁を形作っているわけです。ひょっとして、大宰府は単なる出先機関ではなかったのではないか。単なる出先機関ではなかったとするといったいなんだったのか。そんな想像をしながら秋の太宰府を散策するのも楽しいものです。

 

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