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ブログ - 太宰府 梅園菓子処 - 太宰府天満宮御用達の和菓子

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竈門の華

カテゴリ: 菓子のことのは 作成日:2021年02月08日(月)

 令和2年の緊急事態宣言の真っ最中、コロナで無聊をかこっていた工場の職人達が試作していた市松模様のうその餅。黒と緑のもの、白とピンクのものが出来上がっていました。聞けばかなりの工数と時間がかかるようなので「いやちょっとそのままじゃ無理」と一度工場に戻していたのですが、それでもめげずに頑張って仕上げてきました。

 

 しかし、黒と緑の市松模様は食べるとイカ墨パスタ状態。その状態でにやりと笑われるとまさにお歯黒。これはまずいだろうということで商品化断念。白とピンクの方は愛らしくて華やかとなりましたので、こちらを採用して満を持して商品化に漕ぎつけました。

 

 毎月1日には竈門神社に参拝に行くわけですが2月1日にも社長たちが参りました。せっかくなので新しく出来上がった竈門のうその餅もご奉納させていただこうということで持っていったわけなのです。

 

 無事に参拝も終わりまして帰路につく頃合いで、竈門神社の職員の方からお声掛けがあり「宮司からの伝言ですが、竈門のうその餅の名前を竈門の華にしてはいかがですかとのことでした」との思いがけないお言葉をいただきました。

 

 まさか西高辻信良様から菓銘をいただくとは思ってもおらず、想定外のありえない展開に吃驚すると同時に心から感謝の気持ちが湧いてまいりました。これぞまさに幸運を運んで来てくれるうその鳥の効果なのかも知れません。

 

 竈門の華、手の込んだ菓子ですのでこれまでのうその餅と比べると少々お値段も張りますが、麻の葉文様の土佐和紙をあしらい雅な雰囲気が気持ちを華やかにさせてくれるかと思います。ちなみに、竈門とついた菓銘は梅園菓子処では初。青竹を描いた博多人形のうそ鳥も竈門の華限定のレアもの。ぜひ店頭並びにECサイトにてお買い求めください。

 

 竈門の華をECサイトからご購入の方はこちら

 

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竈門の華(青竹を描いたうそ鳥、麻の葉文様の土佐和紙が雅)

2月の和菓子はうぐいす餅と竈門のうその餅

カテゴリ: 菓子のことのは 作成日:2021年01月31日(日)

 しばらくご無沙汰をしておりまして失礼しております。というのも、クロワッサンにうその餅をご紹介いただいてからというもの、たくさんのご注文を頂戴しておりまして、その発送準備に追われる日々を送っていたのであります。今でも継続中ではありますが、少しだけ落ち着きましたので久々にブログを書こうと思ったわけなのです。

 

うぐいす餅

 さて、あっという間に1月が終わってしまいました。明日からは2月となりますが、ここ数年来、和菓子で季節を取り込むというテーマを掲げている梅園菓子処としては2月の菓子を何にしようかと年末年始から考えておりました。

 

 先達の京和菓子のお店にはそれぞれ特色ある菓子が季節ごとに並ぶわけですが、弊店ではその辺りは少しなおざりになっていたわけなのです。そこで、新社長が奮闘しまして、和菓子で季節を取り込むというテーマで毎月の菓子を意欲的に販売してきました。

 

 如月の和菓子はうぐいす餅にしてはどうかという案が出ました。ま、出したのは私なのですが。そこで職人さんたちが試行錯誤を繰り返しまして、梅園菓子処としては初めてのうぐいす餅を販売することになりました。正確には創業の頃には販売していたようなのですが、次第に作らなくなったというところだそうです。

 

 もちろん国産の青きな粉、自家製求肥と漉し餡で謹製。保存料や添加物の入ってない素材を使っていますので、安心して召し上がっていただけます。こちらは生菓子ですので店頭のみの販売となっております。西日本方面の方の場合、場合によっては発送できることもありますので、お問い合わせいただければと思います。

 

竈門のうその餅

 もうひとつの新商品が、竈門のうその餅。コロナ禍、製造する商品がなく時間を持て余していた職人達がなんか面白いことはできないかということで試作を繰り返していたものです。「なぬ?そんなに時間がかかるなら商品化は無理ばい」ということで私が一蹴していたものなのです。しかし、時短を目指して工程に改良を加えて努力を積み重ねてくれた結果、このくらいならなんとかというところに漕ぎつけました。

 

 これも応援をしてくださったみなさまのおかげです。この商品、梅園菓子処はじめてのボトムアップ商品です。なかなか良い社風が育ってきました。心を鬼にして一蹴した甲斐もあったというものです。

 

 目を引くのは青竹のうその鳥。ええ、例のアレにあやかったものです。この辺りも含めて社内的にもどうかって声もなくもなかったのですが、結果的にお客様が喜んでくれるならということでGOサイン。さらに、紅白の市松模様がぐっときます。ここの工程を短縮するのに苦労していたようです。

 

 さらに、それだけで終わらないのが梅園菓子処の企画力。例のアレ絡みで麻の葉模様を取り入れようということで、土佐和紙をそっとあしらいました。模様の入った和紙なのです、これ。どうやってこの模様を作り出したんだろうと思うほどの繊細な和紙です。こちらの会社は江戸時代から土佐和紙を漉いてきた方々の系譜なのだそうです。

 

 こちらも今日からECサイトで販売開始です。が、1日に製造できる個数が限られておりますので、完全受注生産となります。そのため最低1週間ほどお日にちを頂戴することになりそうです。激コミとなればさらに伸びる可能性もありますので、どうぞ気長にお待ちいただければと思います。それではご注文、心よりお待ち申し上げております。

 

 土佐和紙 モリサ様

 

 竈門のうその餅商品ページ

 

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紅白の市松模様も美しい竈門のうその餅

 

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麻の葉模様の土佐和紙!これが和紙!

木うそ速報

カテゴリ: お店からのお知らせ 作成日:2021年01月15日(金)

 今年は新型コロナウイルスの影響から1月にご来店いただくお客様の数がそれほど多くはないため、木うその在庫に少々余裕があります。例年ですとこの時期は少々厳しくなってくるのですが、今年はまだいけます。ぜひ、この機会にお正月限定のレアな木うそをご入手ください。

 

 レターパックならうその餅を2つまで520円で全国どこでも送ることが可能です。さらに、コンパクト便などを使えばその他の商品との同梱も可能。送料も通常のヤマト便よりもう少しだけお安くできますから、お店までお電話いただければと思います。

 

 ただ、残念なことにECサイトの方はコンパクト便に対応できてないので、クレジットカード決済ができません。コンパクト便のご利用にはひと工夫必要ですので、とりあえずお電話いただくのが早いかもです。商品の大きさによって組み合わせが変化してコンパクト便の利用が出来るか出来ないかが決まるのですが、この辺りはECサイトでは対応出来ておりません。どっか安くて性能のいいAIでもあればいいんですけどね。

 

 それから、Instagramでご紹介したサングラス土うそもございます。個数限定でなくなり次第の終了ですが、お送りもできますからECサイトご注文の際、備考欄にお書き添えください。サングラス土うそについては、うちのInstagramをご覧いただければと思います。

 

 クロワッサンに掲載いただいたおかげ様で物凄い数のご注文をいただいております。しかし、コロナ感染拡大防止の観点からスタッフを少し減らして運用しているため、お客様には発送まで少々お待ちいただいている状況でした。加えて、先週の大雪ということで集荷もストップ。かなりタイトな状況でしたが、集荷が再開されましたので毎日確実に発送できております。お手元に届くまで少々お時間を頂戴しておりますが、ぜひこの機会に木うそ入をお買い求めください。

 

梅園菓子処のうそ人形

左から、木うそ・福うそ・土うそ・土鈴うそ 

 

 うその餅はこちらからご注文いただけます

 

 

飛梅から菓銘を頂戴した縁起のよい和三盆打ちもの

カテゴリ: 菓子のことのは 作成日:2021年01月10日(日)

 飛梅と書いてとびうめと読みます。梅園菓子処の飛梅は、梅の形をかたどった紅白の打ちものです。 菓銘は菅原道真公ゆかりの御神木『飛梅』にちなみました。北阿波産の和三盆糖の風味がよく立ち、きめ細かで上品な甘さが楽しめると長くご愛顧いただいています。和三盆糖は創業200年の岡田製糖所様の和三盆糖をずっと使わせていただいています。

 

 さて、本家本元の飛梅という梅の木は、樹齢千年を超えるとされる白梅のことで、本殿前の左近(本殿に向かって右側)に植えられています。この飛梅、もともと道真公の配所であった榎社(えのきしゃ)にありましたが、太宰府天満宮の造営後に現在の本殿前に移されたといわれています。

 

 人形浄瑠璃や歌舞伎でも演じられる菅原伝授手習鑑などにもこの飛梅が出てきます。また、太宰府天満宮に植えられた梅のなかではいちばん先に咲き始めることでも有名です。寒い時期こそ、梅はいっそう引き立つ感じがします。

 

 実際のところ、梅の木が一夜にして650キロを飛来し、GPSのない時代にピンポイントで榎社に降り立ったかどうかは別として、菅原道真公と梅の関係はやはり深いものがあったことは事実でしょう。あるいはもともとこの地が梅と深い関係にあったのか。いずれにせよ、太宰府と梅、菅公と梅は切っても切れない深い関係なのです。

 

 また別の伝承では、伊勢国度会の白太夫という者が、道真公を慕って大宰府に下る際、道真公の京の屋敷に立ち寄り、夫人の便りとともに庭の梅を根分けして持ってきたという話もあります。道真公は都から取り寄せたことを伏せ、「梅が飛んできた」ということにしたともいわれています。道真公に「これは都から飛んできた」と言われては「左様にござりますな」としか返答のしようもありません。謎多き飛梅ですが、だからこそ古来から多くの人の心を惹きつけてやまないのでしょうね。

 

 梅園菓子処の飛梅は通販では18個入と26個入をご用意しています。店頭では朱色の丸い箱に入った愛らしいものも販売しています。また、木箱入のものもありますのでご贈答にも大変喜ばれています。職人による手作りのため大量にご注文の際は事前にご相談ください。

 

飛梅

梅園菓子処の飛梅は和三盆糖の美味しさが際立っています

 

 飛梅18個入

 飛梅26個入

 

歴史探訪 岩屋城 - ちょっと長い

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2021年01月04日(月)

 古代からその立地ゆえに太宰府は歴史がミルフィーユ状態で積み重なってきているわけですが、戦国期にも大きな注目を浴びた場所のひとつです。室町末期に周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六か国の守護を務めた大内義隆が陶隆房の謀反によって滅んだあと、古来からの貿易港である博多を擁する筑前は財力を生み出す要衝として見なされていました。

 

 そんな中で力をつけてきたのが豊後府内を拠点とする大友宗麟。もともと鎌倉御家人という血統の良さもあり、豊後在郷の国人衆を麾下に収めて力をつけ北部九州を席捲していきました。これに対して、中国地方の覇者である毛利勢(毛利元就、吉川元春、小早川隆景)らも筑前博多を手に入れようと触手を伸ばします。このような緊迫した情勢の中、大友宗麟は加判衆と呼ばれた側近の武将たちを筑前一帯の城に分散配置してエリアとして筑前を押さえていました。

 

 大友宗麟が筑前一帯を押さえるための拠点としたのが、糸島の柑子岳城(糸島市)、早良の安楽平城(福岡市早良区脇山)、那珂川の鷲ヶ岳城(那珂川市)、新宮の立花山城(新宮町)、太宰府の宝満山城(太宰府市)の五城でした。宝満山城には支城として岩屋城がありました。立花山城の城督は猛将と恐れられた戸次鑑連(べっき あきつら)、またの名を立花道雪(たちばなどうせつ)。そして宝満山城の城督がこちらも戦国無双の高橋紹運。この二人の部将が中心となって、攻め寄せる毛利軍や力を伸ばしてきた佐賀の龍造寺軍と戦っていたのです。

 

 しかし、毛利勢は東部戦線で織田信長麾下の羽柴軍と戦闘状態となり、西部戦線であった博多攻略は断念せねばならなくなります。さらに大友宗麟は滅亡した尼子氏の残党を陰から支援して毛利が筑前から完全に手を引くように調略します。その結果、大友宗麟は筑前一帯を完全に掌握するに至ったのです。

 

 この頃から、佐賀の龍造寺隆信、朝倉の秋月種実、薩摩の島津義久らが戦国武将として力を増して来ます。龍造寺は背振山を越え北上して筑前を狙い、秋月は頻繁に宝満山城を攻めて太宰府天満宮まで焼き討ちにしました。島津とは日向の耳川合戦にて手痛い敗北を喫して次第に大友宗麟の筑前筑後への支配が弱体化していったのです。

 

 この中で抜きん出てきたのが薩摩の島津義久でした。島津北上を邪魔する龍造寺隆信を沖田畷の合戦で討ち取り、怒涛の勢いで北上を始めます。これに危機を感じた大友宗麟はすでに関白となっていた秀吉に臣従して援軍を請います。島津義久は島津忠長と伊集院忠棟に筑前攻略を命じます。島津軍は併呑した九州一円の国人衆の軍団を取り込み、宝満山城と立花山城を陥落させようと攻め寄せます。

 

 大友宗麟からの援軍もなく孤立無援の宝満山城を守るのは高橋紹運。紹運は支城である岩屋城を前線と定めてここに籠城。実子で立花家に養子に出した立花宗茂は後ろ備えとして立花山城に立て籠もり島津軍に備えます。観世音寺を本陣とする寄せ手の島津軍はざっと5万余の軍勢、岩屋城にてこれを迎え撃つ高橋軍は763名。多勢に無勢の戦況の中、秀吉軍師の黒田官兵衛からも使者が出され、岩屋城を退き立花山城へ合流されたいとの勧告を受けますが、これを丁重に断ります。

 

 島津軍が十重二十重と岩屋城を取り囲み、いよいよ岩屋城への城攻めが始まりました。しかし、岩屋城の守りが堅固な上に、決死の覚悟の高橋軍の抵抗は激しく、島津軍はなかなか岩屋城を攻め落とせません。攻め寄せるたびに島津軍には大きな損害が発生するようになっていきました。途中、島津義久は何度か降伏勧告を高橋紹運に行いますが、これも丁重に断ります。黒田官兵衛は岩屋城落城間近との急報を秀吉に送りますが、まだ島津征伐の準備が整っておらず軍勢は間に合いそうにあいません。

 

 そのような中、とうとう岩屋城の水の手が切られることとなり城中では水不足が深刻となります。地元に伝わる伝承では、ひとりの老婆が島津軍に岩屋城の水の手を教えたという話も伝わっています。これ以上の籠城継続は不可能と見た島津軍は岩屋城に対して総攻撃を仕掛けます。各方面の砦が落とされ歴戦の部将が討ち死にする中、高橋紹運もみずから自刃して果て、岩屋城は落城しました。

 

 島津軍は岩屋城を落城せしめたのち、急ぎ立花宗茂が籠る立花山城へと軍を転進させます。こちらも十重二十重と取り囲み立花宗茂に対して降伏勧告を再三行います。主家であった大友宗麟の本拠地である豊後府内も島津別動隊から攻撃され落城。万事休すという時に、やっと秀吉軍先遣隊が豊前に到着。秀吉軍まもなく到着の知らせを受けた島津軍はすぐに立花山城の囲いを解いて撤退を始めます。以後、総兵力20万の秀吉軍が押し寄せるに至って島津軍は次第に劣勢となり、義久は降伏しています。

 

 この時、立花宗茂は秀吉からの覚えもめでたく西国無双と称えられ秀吉の直臣に取り立てられて大名となりました。この立花家はのちに柳川城を与えられ紆余曲折の後、明治まで大名として残るに至りました。

 

 2017年、大徳寺大慈院で立花家主催による「立花宗成公ご生誕450年記念茶会」が開催され、梅園菓子処の宝満山干菓子(よろつよ)を使っていただけたのも時空を超えた不思議なご縁を感じたところです。実は筆者の先祖は安楽平城の城督であった小田部紹叱の家臣で、おそらく立花道雪や高橋紹運らとともに戦陣を疾駆していただろうと思われます。450年の時空を超えた不思議なご縁を感じた次第です。

 

 以上、ちょっと長くなったのですが、太宰府近郊を語るにおいて岩屋城の攻防戦は外せないトピックでもありますので、記録として残しておきたいと思います。なお、内容としてはかなり端折っています。本当はまだまだ細かく精緻に書いていきたいのですが、それだと読む人がいなくなってしまいますので、心を鬼にして敢えてシンプルな筋書きにしています。正直なところ、筑紫廣門や秋月種実などとの絡みはもっとおもしろいところなのですが、またの機会に致します。

 

 

 11/18大慈院イベントレポート②お茶席のお菓子(立花万起子様執筆の記事)

 

 岩屋城(大変詳細に書かれていてとても参考になります)

 

壽 初春大歌舞伎でうその餅

カテゴリ: 菓子のことのは 作成日:2021年01月03日(日)

 令和3年1月2日から『壽 初春大歌舞伎』が銀座の歌舞伎座にて開催されています。第三部では菅原伝授手習鑑が演目となっておりまして、恒例のうその餅スペシャルバージョンが1月5日から1月27日までの間、木挽町広場などで販売されます。

 

 もちろん、歌舞伎座様でお出しするうその餅ですから、うそ鳥もスペシャル。いつも販売しているものとは若干雰囲気が異なります。歌舞伎座様でしか販売していないうその餅です。

 

 さらに今回は、官公を慕って京から太宰府まで一夜にして飛来した飛梅伝説から菓銘をいただいた飛梅という和三盆の干菓子もお出しします。650キロを一夜にして飛んでくる飛梅マジックの底力で、ぜひ令和3年も強運を引き寄せてしまいましょう。その他、詳細は下記リンクをご覧ください。

 

 ただ、東京で緊急事態宣言などが発出され歌舞伎興行が中止になる可能性もあります。その際には売店も含めて一時閉店する場合もあります。詳しくは歌舞伎座様のホームページなどをご覧いただければと思います。今回の興行が無事に千穐楽を迎えることができるよう祈っております。ご来場、ご来店の際にはどうぞ感染防止対策を十分になさっておいでください。

 

 【営業時間】※歌舞伎座ホームページより抜粋

1月2日(土)~27日(水)10時~20時45分

12日(火)・19日(火)・28日(木)~31日(日)10時~18時

1月1日(金)は休業

※歌舞伎座正面向かって右側(歌舞伎稲荷奥)、直接入れる出入り口をご利用ください。

 御観劇の前後にご利用賜りますようお願い申し上げます。

 (御観覧券をお持ちでなくてもご入場できます)

 

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歌舞伎座限定のうその餅(目のあたりがスペシャルです)

 

 歌舞伎座

 木挽町広場のお土産情報サイト

辛丑 あけましておめでとうございます

カテゴリ: お店からのお知らせ 作成日:2021年01月01日(金)

 新年明けましておめでとうございます。本年も梅園菓子処をどうぞよろしくお願い申し上げます。お正月は元旦から少々みぞれ混じりの天気となっていますが、参道ではどのお店も元気に営業を行っています。昨年は新型コロナウイルス感染症の影響でどなた様も甚大な影響を受けられたと思います。今年は景気も気分もぜひ上向いて欲しいと切に願っております。

 

 辛(かのと)とは金の弟(陰)、丑は土の陰ということで、その意味するところ土が金を産むという年ですから何かが花開く年となるのかもしれません。こういう時には縁起を担ぐのが古来の日本人の知恵。ぜひ、お近くの神社やお寺さんにお参りになられまして縁起物をお買い求めください。がっつり縁起を担いでさらなる開運を目指していきましょう。

 

 本年がみなさまにとって実り多き年でありますよう願っております。年始は休まず営業をしておりますが、1月8日のみお休みをいただきます。みなさまのご来店を心よりお待ちしております。

福岡県北部で三社詣りするならここですばい

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年12月30日(水)

 令和2年も残りわずかということで令和3年を新しくお迎えするため太宰府天満宮を含めて三社詣りや神社巡りなどいかがでしょうか。といってもそれぞれのお宮は正月の大渋滞は間違いなし。とても1日では無理かも知れませんので、一応五社をご紹介しておきます。魂ふるえるところにお参りください。

 

太宰府天満宮 太宰府市 Dazaifu Tenman Gu

 福岡市から南に下ったところにあるのが太宰府市。その名前の由来になったのが太宰府天満宮ですね。押しも押されもせぬ全国天満宮の総本社でして学問の神様である菅原道真公が祀られています。ご本殿の奥へと進めば自然に明鏡止水となるこの土地、おそらくは太古の昔からなんらかの信仰の対象地ではなかったのかと邪推しております。

 

福岡平野(福岡市があるところ)と筑後平野(久留米市や柳川市があるところ)は背振連山で南北に分断されているのですが、この太宰府市と目と鼻の先の二日市あたりが平地となっており、ここで南北に繋がっているのです。つまり、この太宰府周辺は政治的にも軍事的にも要衝だったことは間違いありません。ちなみに、正月三ヶ日、車はあまりおすすめできません。どうしても車でお越しの際は朝駆けをお勧めいたします。

 

筥崎宮 福岡市東区 Hakozaki Gu

 元寇襲来で一躍名をはせた筥崎宮。亀山上皇の敵国降伏の扁額が堂々とかかる山門に魂ふるえる由緒ある神社です。戦の神様である八幡様を主神としているだけに勝負事の祈願にも滅法強い神社となります。

 

公式レコードでは「延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神とした」とされていますが、いやいやもっと古いでしょうとまたもや邪推。玉依姫命なら海幸彦さんや山幸彦さんと同世代なので縄文末期くらいまでいってしまうのではと個人的には妄想しています。ここからほど近い志賀島の志賀海神社には鹿の角がたくさん祀ってあるのですが、縄文期には鹿の角は釣り針のテッパン。志賀海神社が龍神様と関係が深いのも首肯できるところ。あくまでも個人の妄想ですので、公式には延喜21年です…。

 

香椎宮 福岡市東区 Kashii Gu

 公式レコードでは仲哀天皇九年(200)ということなので弥生時代中期でしょうか。古くは橿日宮と記されてまして「かしひ」と呼んでいたのでしょうね。弥生中期となるとこれはもう神話の時代という感じです。

 

しかし、同じ頃、大陸では黄巾党の乱が起こっていますのでこれから三国鼎立へと向かって歴史が進む頃合いです。つまり、魏呉蜀が天下の覇権を巡り争った三国志の時代となります。魏の皇帝であった曹叡(曹操の孫)から邪馬臺国の女王・卑弥呼に対して与えられたのが親魏倭王の称号。これが西暦238年ということですからちょうど香椎宮が出来て38年後、いや待てよ。この頃は神功皇后では……。卑弥呼どこいった?? ともあれ、古いお宮ということは間違いありません。

 

宮地嶽神社 福津市 Miyajidake Jinja

 嵐の光の道で一躍全国区となったこちらも古い神社です。ご祭神は神功皇后…、ひ、ひ、卑弥呼どこいった……。それはさておき、こちらの神社には日本一の大きさを誇る横穴式石室が残る巨石古墳があることでも有名です。6世紀末頃の古墳といいますから、甕棺墓の頃とは隔世の感があります。その石室からはお宝がざくざくと出てきまして、そのうち20点が国宝指定。

 

公式サイトには『御創建以来1600有余年を経て、本殿の御遷座80年の節目に、宮地嶽神社は、北部九州王朝の聖地として栄えたこの地にふさわしい…』と記載されており、この地が古来から大変重要な場所であったことを示しています。ちなみに、本殿のうしろには奥宮八社がありまして不動明王、龍神様、地蔵菩薩などをお祀りしています。神社と仏教のハイブリッドという珍しい形ですが、これは本地垂迹といって昔から日本人にとっては馴染みのある形。神社と仏教が分離されたのは明治以降となるのです。古い信仰の形がどこか新鮮な奥宮八社もおすすめです。

 

宗像大社 宗像市 Munakata Taisha

 こちらもかなり古く由緒ある神社となります。ご祭神は宗像三女神といいまして、天照大御神様と須佐之男命の誓約(うけい)で誕生なさっているところからしても、その始原は相当に古くもはや日本神話レベル。ですからどうなのでしょうか…弥生初期とかまで遡るのかも知れませんね。

 

加えてこの宗像大社のすごいのは海の正倉院と称される沖ノ島を擁すること。古代の信仰の在り方をそのまま残した沖ノ島には今でも神職の方が交代で当直をなさっているのだとか。宗像大社の横にある神宝館も圧巻で国宝がごろごろ。なんと8万点の国宝がこの神宝館に収蔵されているのです。宗像大社と宮地嶽神社、比較的に近いのでアクセスしやいかと思います。本殿裏手からちょっとした小山を登っていった先にある高宮祭場も古き時代の神代を感じさせてくれます。ぜひ立ち寄ってみてください。

 

以上、福岡県北部の由緒正しき神社のごく一部をご紹介してみました。みなさまの神社参拝ラリーや三社詣りなどの参考になさってください。この他にもよい神社仏閣がたくさんあるのですが、それはまたの機会に。それから、上記の解説は特に断りのない限り、あくまでも筆者の個人的主観ですので、その辺りも含めてゆるく楽しんでいただければと思います。太宰府天満宮ご参拝の折には、どうぞお帰りに梅園菓子処へもお立ち寄りください。お正月には限定の商品なども揃えております。みなさまのお越しをお待ちしております。

 

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五月の新緑美しい頃の太宰府天満宮楼門 

 

 参考ウェブサイト

 太宰府天満宮公式サイト

 筥崎宮公式サイト

 香椎宮公式サイト

 宮地嶽神社公式サイト

 宗像大社公式サイト

 

花びら餅もご用意してます

カテゴリ: 菓子のことのは 作成日:2020年12月28日(月)

 花びら餅といえばお正月のお菓子ですが、もともとは宮中での習慣が公家や武家を通じて庶民にも広がっていったとされています。この詳しい説明はネットにたくさん掲載されておりますが、一番詳しく書かれていると思われるURLを下記にご紹介しておきますので、ぜひご覧ください。

 

 何事も本家や元祖というものがありますが、花びら餅と粽はやはり室町時代から宮中に出入りされている川端道喜さんということになるでしょうか。より正しくは御菱葩(おんひしはなびら)といい、今では裏千家お家元の初釜でしか食べられないものだとか。これと同じものが試餅(こころみのもち)というものだそうで、毎年年末に販売されているようです。当然、予約でしか手に入らない逸品です。

 

 とはいえ、良き習慣もまた人里に流れていき広まっていくものです。宮中での雅な習慣は私たち庶民の間にも広まっていくのです。しかし、誰もが宮中の御菱葩を食べられるわけではないので、少しずつモディファイドして変化していったのが、花びら餅ということになるのでしょうね。

 

 花びら餅には牛蒡が入っていますが、陰陽でいうと陽となります。かぼちゃは中庸からやや陽よりでしたから、さらに少し陽に振れた感じですね。わざわざ牛蒡を餅に挟むという点を考えると、やはり少しずつ陽の気を取り入れていこうとする意図を感じます。初春とはいえまだまだ寒い新春ですから、体を温める作用のある牛蒡などを入れたのかも知れませんね。

 

 梅園菓子処でも花びら餅を正月用にご用意しております。こちらは基本的には店頭販売のみとはなりますが、太宰府天満宮参拝の折にはぜひご来店ください。ただ、職人の手作りのため数が作れません。そのため完売している場合もございますのでご容赦ください。それではご来店、心よりお待ちしております。

 

 花びら餅

 iPad12proで撮影しましたが室内なりにきれいに発色してますね

 

 梅の花びらを模ったお餅で新年を寿ぐ ―御菱葩(川端道喜)[京の和菓子探訪 #8]

 

維新の策動地としての太宰府

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年12月25日(金)

 今日は加藤司書傳という復刻本から太宰府に関するところを口語訳してご紹介してみたいと思います。文語調独特の言い回しや難解な語句が並びますので、敢えて意訳しているところもあります。雰囲気を楽しむ感じでお読みいただければと思います。

 

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 三条公は居室においても常に竹馬に乗って稽古に励んでいました。五卿の中でも、四条公は特に馬術に長けていらして、颯爽たる御姿で太宰府の町々を練っていました。その後、四条卿は陸軍少将となって大阪師団長を務めたことからも、その馬術がいかに秀でていたかが分かるというものです。

 

 当時、勤皇の志士はことごとく五卿の下に集まってきました。それらの志士が宿とした場所は、勤皇の志の篤い松屋孫兵衛の屋敷であって、土佐の奇傑と称された坂本龍馬もやってきました。同じく土佐藩の中岡慎太郎もやってきて、2年11ヶ月の五卿太宰府滞在中、この地にあって五卿に接して五卿のために東奔西走して勤皇のために尽くしました。

 

 日本海軍の代表者である坂本龍馬、陸軍の代表者たる中岡慎太郎、五卿を中心に影が形に添うようにしっかりとつき従っていた土方楠左衛門久元伯爵も2年11ヶ月の間、五卿に随身して加藤司書公と常に連携を取り、加藤司書公が切腹の際には五卿の助命使として早馬をもって天福寺に駆け付けました。しかしながら、時すでに遅く自刃の後ということでたくさんの恨みを飲み込んだのでした。

 

 西郷吉之助も折々松屋にやってきて、加藤司書公の策動による薩長連合のため、長州藩代表の高杉晋作や加藤司書と頻繁に会合をしていました。僧月照は西郷と一緒に太宰府に来た時、松屋に泊まって

 言の葉の花をあるじに旅寝する

  この松陰に千代も忘るな

 という和歌を宿の主人の松屋孫兵衛に与えました。王政復古の悲願がまだまだ成就できぬことを悟って、西郷とともに薩摩の錦江湾に身を投げたわけですが、高齢だった月照は錦江湾の波間に消え去り、命が助かったのは西郷だけだったという事件はこの歌を詠んだ直後のことです。

 

 <中略>

 

 こうして加藤司書の尽力によって五卿は太宰府を拠点として、各地の勤皇の志士たちは各方面から太宰府に集まってきて、王政維新の一大震源地となってこの地は大変に栄えたのです。そこで幕府は大目付の小林惇六郎を福岡藩に派遣して太宰府の五卿奪還を試みました。

 小林は30人ほどの屈強な幕臣を連れて福岡表へやってきました。これを知った福岡藩の佐幕派たちは待ちかねたように膝を打ってやはりまだまだ幕府の力が衰えてはいないと大喜びでした。これを機会に幕府に味方している公卿の親書を藩主の黒田長溥公にお示しして、一気に勤皇党を潰してしまおうと考えました。

 

 加藤司書は家老職を辞して閉門となり、幕府大目付小林惇六郎は福岡藩の勤皇党に対して圧力を加えて、さらに二日市に転進してここを拠点として五卿の奪還を計画しました。小林は「私の力で五卿のみなさまを復官させましょう」と甘言を弄して五卿をおびき出し、その途中で五卿を殺害しようと企てたのです。

 

 五卿を守る薩摩、久留米、佐賀、福岡、熊本の五藩の藩兵たちではありましたが、中には佐幕派もあれば勤皇派もありという感じでバラバラの寄せ集めでした。その中でも福岡藩は加藤司書が家老職を辞した結果、勤皇派が力を失って佐幕派が力を盛り返していた状態でした。

 土佐藩の藩兵は本願寺に陣取って、その他の藩の兵たちも「五卿は渡すわけにはいかぬ」と幕府側と対峙する状況となったのでした。

 五卿は大目付の小林惇六郎が来藩したことでこれは危ないと気づきましたが、ここからどこかに逃げることや、江戸表に送られることなどは潔くないとして、あくまでもこの場に留まって忠節に殉じて太宰府の土となるまでと決心を固められました。このようにして大目付小林惇六郎が虎視眈々と機会を伺う中、太宰府に詰めかけた勤皇派はみな奮起して幕府側と対峙したのでした。

 

 <中略>

 

 小林惇六郎は幕臣30名を率いて太宰府天満宮参拝を理由として太宰府において示威行進を行いました。この報告を受けた加藤司書は早速に五卿を護衛しようと思い立ちますが、家老職を解かれ閉門蟄居の身の上なので為す術がない状態でした。

 

 薩摩藩の大山格之介はただちに36名の砲兵と大砲3門を率いて太宰府に前進し「たとえ幕府の大目付が来られようとも五卿に指一本触れさせぬ」と空砲を二日市の小林の陣営に向けて撃ち放ち威嚇射撃を行いました。その後、大山はひとりで小林を訪ね「三条公以下五卿の太宰府滞在は将軍様の命令によって尾張総督が決定なされたことです。将軍様の命令なく小林殿が勝手に大目付の分限で五卿の身を移そうとするのは不埒な行為と断じざるを得ません。あるいは、これがたとえ将軍様の命令であっても薩摩藩として断じて五卿を引き渡すわけには参りません。五卿はすでに太宰府の土となろうと固く決意をなさっておられます。もし力づくで奪還せんとお考えであればどうぞなさってください。私たちには三門の大砲がありますので、命令一下、一撃の下に打ち破ってご覧にいれましょう」と談判を試みました。

 

 これにはさすがの大目付小林も辟易として「では、三条公以下五卿にご挨拶のみさせていただこう」となり、小林は延寿王院の正門から入ろうとしましたが許されず裏門から屋敷へと入り、五卿と面談をなされました。この際も五卿の傍では勤皇派の志士らが取り囲み、何かあれば一刀のもとに斬り捨てようと刀の鯉口を切って身構えている状態でした。そのため、小林はとうとう為す術もなく引きさがって延寿王院をあとにしたのでした。

 

 このようにして太宰府は加藤司書の思惑通りに五卿を中心とした勤皇王政復古の一大震源地となり、黒田嘉右衛門や田中光顕伯爵など京都と太宰府の間を往復しては五卿の精神を京都に伝え、勤皇派の志士たちと連携をとり、五卿らは太宰府に留まること2年11ヶ月の長きにわたったのでした。

 

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 まだまだ記述はあるのですが、あまりに長いので今日のところはこの辺りで。また機会をみてご紹介させていただこうと思います。

 

enju2

延寿王院の門

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