太宰府を囲む謎の土塁
福岡県筑紫野市で土塁状の遺構が確認された前畑遺跡。古代大宰府の防衛ラインかということで歴史ファンの注目を集めているようです。産経新聞のニュースを簡単にまとめてみました。
1.前畑遺跡から発見された土塁状の遺構
平成27年10月、筑紫野市にある前畑遺跡から丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構が発見されました。この土塁状遺構は確認されたところで長さ390メートル、さらに南へ伸びていることが分かっているそうです。前畑遺跡そのものは弥生時代から古墳時代の遺跡だとされています。
2.土塁は2層からなり上層は版築(はんちく)工法で築かれていた
版築というのは土と砂を交互に積み重ねて突き固める工法のことで、同じ版築工法で作られた遺跡として大宰府防衛のために築かれた水城や大野城などが知られています。
3.東手より寄せる敵からの防衛を意図
東側が急斜面となっていることから、東より寄せ来る敵から防衛する意図があるとされています。
4.国内初の羅城の可能性も
羅城とは首都を防衛するために都市をまるごと城壁で囲んだものだとされています。日本では羅城門のように門の名前としてのみ使用されているようです。ですから、もしこれが羅城だとすれば国内初の発見かということで歴史家も注目しているのだそうです。
5.いったい何を守っていたのか
これがもし本当に羅城だとすると、筑後川、御笠川、宝満川、神籠石群、水城、羅城と十重二十重の守りで敵国から大宰府エリアを防衛していたのかも知れませんね。しかし、これだけ大規模な防衛ラインを地方の出先機関のために築くのかというのも疑問の残るところです。通常、そこを占領されたら降伏という場所を守るために大規模かつ重層的な防衛ラインを準備するものだろうと思います。当時の大宰府がいくら重要な役割を果たしていた機関だとしても首都圏である近畿からは遠く離れた出先機関です。
加えていうならば、北部九州など素通りすればこの防衛ラインは意味をなしません。仮に朝鮮半島や唐の沿岸部から首都である近畿地方を攻略しようと思えば中国地方沿岸部から上陸して中国地方を南下すれば良いだけの話です。わざわざ出先機関の大宰府と一戦を構える必要はありません。あるいはたくさんの軍船で玄界灘から下関を通って瀬戸内海に進んでいくという手もありますが、この場合でもわざわざ大宰府と事を構える必要がありません。
しかし、現実的にはこの羅城と思しき防衛ラインは大宰府エリアを防衛するように堅固に城壁を形作っているわけです。ひょっとして、大宰府は単なる出先機関ではなかったのではないか。単なる出先機関ではなかったとするといったいなんだったのか。そんな想像をしながら秋の太宰府を散策するのも楽しいものです。