観世音寺なる寺を逍遥すなり
太宰府天満宮から西に少々離れたところに都府楼と呼ばれる遺跡があります。またの名を都督府跡ともいいます。その東側には観世音寺という由緒ある古刹がひっそりと佇んでいます。Wikipediaではその創建を天平18年(746年)としていますが、出土した創建瓦が老司1式と呼ばれるものだそうで、そこから推測するとDC7世紀末の創建という説もあるようです。
天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈るために建立したという説が一般的です。この斉明天皇の公的な陵は奈良県の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)というところだそうですが、実は愛媛県今治市の朝倉という場所に斉明天皇の供養塔があるのです。斉明天皇は筑紫の朝倉で崩御なさったので筑紫に供養塔があるならば理解できますが、今治市の朝倉にひっそりと佇んでいるところが実に不思議です。
しかし、古代史ファンの筆者としては、このように詳らかではない状態に心躍るものがあります。本当に分からないこともあるでしょうが、意図的に古代の人たちが隠している部分もあろうかと思います。英語で発見することをdiscoverといいますが、まさに覆い隠されていたものが剥がれるという意味で発見なのでしょう。古代の人たちが知恵を絞って敢えてあやふやにしているものを物証や仮説で推理して解き明かしていく楽しさ。これが古代史の面白さといえるかも知れませんね。ある意味、現代人と古代人の知恵比べといった感じです。もちろん、プロフェッショナルな方々のお仕事の邪魔をするつもりはありませんので個人的に楽しんでいる感じですが。
さて、平安時代後期の白河院政期に成立した物語『大鏡』の中にこのような一文があります。
筑紫におはします所の御門固めておはします。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、又いと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して作らしめ給へる詩ぞかし、
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘聲
(大意)菅原道真公は左遷先の筑紫でお住まいになられているお屋敷の御門を固く閉ざしていらっしゃいます。大弐(太宰府政庁の次官級の階級)の居所とはかなり離れていますが、太宰府の楼門の瓦などは無意識に自然とお目にとまります。また、お屋敷のごく近くには観音寺というお寺がありましたので、その観音寺の鐘の音をお聞きになってお作りになられた歌です。
都府楼の建物の瓦を、わずかに眺めるだけ
観音寺の鐘を、ただ聞くだけ
このように観世音寺は平安の頃から観音寺とも呼ばれていた様子がわかります。大変に古いお寺なのですが、何度か火災に遭っており創建当時の建造物ではありません。また、このお寺の梵鐘は国宝となっておりますが、九州国立博物館の方に預けられているのか今現在はここにはないようです。この梵鐘と兄弟の鐘が妙心寺の鐘ということでこの辺りの情報も心躍るものです。
また、弘法大師が二年の入唐を終えて博多にご帰国の折、しばらく滞在なさっていたのもこの観世音寺です。現在は臨済宗の寺院ではありますが、日本で初めての加持を弘法大師がこのお寺でなさっていたのかも知れません。ともあれ、中大兄皇子や大海人皇子が感じ、弘法大師が感じ、菅原道真公が感じたこの観世音寺の空気をぜひ体感してみてください。お帰りの際にはぜひ太宰府天満宮にもご参拝いただき、参道に並ぶ数々の名店にてお買い物をお楽しみください。もちろん、梅園菓子処で太宰府名物うその餅をご購入いただけましたらこれにすぎる喜びはありません。
今朝方、少し境内の紅葉の具合を覗いてみた時の一葉