太宰府 梅園菓子処 - 太宰府天満宮御用達の和菓子

       

コラム

維新胎動地のひとつでもあった太宰府

カテゴリ: 作成日:2020/12/12

太宰府と言えば太宰府天満宮ということで全国的に大変有名な観光地ですが、実は、明治維新の胎動著しい場所であったことはあまり知られていません。八月十八日の政変により尊王攘夷派の公家方が京都を追放になった事件がありました。

 

三条実美(さんじょう さねとみ)、四条隆謌(しじょう たかうた)、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、壬生基修(みぶ もとおさ)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)の七卿で、世に七卿落ちといわれているものです。そのうち錦小路頼徳が亡くなり、澤宣嘉は生野で平野国臣とともに兵を挙げましたので、五卿と呼ばれるようになります。

 

この五卿は尊王攘夷派のシンボルでもありましたので、長州藩にそのまま留めおくのは危険と幕府が判断し、他藩に身柄をお移しすることとなりました。当初は五卿をばらばらに五藩に分けて管理しようとしたのですが、福岡藩中老で勤皇派の領袖であった加藤司書の働きにより、福岡藩で五卿全員をお預かりすることとなり、慶応元年の正月に太宰府の延寿王院に五卿がお入りになられたわけです。

 

それから、筑前、筑後、薩摩、肥前、肥後の五藩の藩兵が五卿を衛ることとなったのですが、尊王攘夷派のシンボルである五卿が太宰府にいらっしゃるとなれば、多くの尊攘派の志士が当然ながら面会にやってきます。薩摩の西郷吉之助、土佐の坂本龍馬中岡慎太郎、長州の高杉晋作などが太宰府にやってきて五卿と面会したり、志士仲間で話し合い等をしていたようです。もちろん、福岡藩の中老であった加藤司書も何度も延寿王院に足を運び五卿を見舞っています。

 

現在、梅園菓子処が入っている木造建築物は当時和泉屋白水楼(いずみやはくすいろう)と呼ばれる旅籠でした。この周辺(大町)には太宰府天満宮に参拝する旅客のための旅籠が集まっていたわけですが、和泉屋白水楼もそのひとつでした。そして、集まってくる志士たちも藩ごとに異なる旅籠を利用していたようで、和泉屋白水楼はおもに土佐藩、大野屋は長州藩、松屋は薩摩藩というように分かれていたようです。

 

土佐脱藩の土方楠左衛門(土方久元はメモ魔だったようで、詳細な日記を書き残していますが、土方の日記にはこの和泉屋白水楼が頻繁に登場します。下記は土方の手記をスクリーンショットしたものです。原本は国立国会図書館デジタルコレクションの回天実記第2集22コマに収録されています。赤枠で囲んだ部分の1行目の井上は井上聞多、伊藤は伊藤俊輔のことを指します。赤枠5行目に大町泉屋とありますが、これが梅園菓子処が入っている建物となります。赤枠の内容としては、井上と伊藤が長崎に行きたいが長州藩士の名義では途中の通行が難しいので薩摩藩士の名義を貸してくれないかと相談に来たというものです。相談の後で泉屋で酒を飲んだという内容となります。

 

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薩長の歴史は何度も大河ドラマになっていますので詳細を省くとしまして、ここでは福岡藩の勤皇の動きを軽くご紹介しておきます。福岡藩の勤皇派の特色としては加藤司書や黒田播磨のような藩の重役が積極的に勤皇運動を行っていたことにあります。勤皇の志の厚い建部武彦(たけべ たけひこ)や衣非茂記(えび しげき)らを重臣として登用して藩論を動かしていきました。福岡藩第11代藩主の黒田長溥(くろだ ながひろ)公も蘭癖大名と呼ばれるほどオランダから学問や技術を導入していたのですが、尊王攘夷の過激な動きには同調しかねる想いがあったともいわれています。

 

筑前勤皇党の活動が進み藩論が尊王攘夷へと急速に進むにつれて、黒田長溥公と加藤司書らは次第に折り合いが悪くなってきました。実際、勤皇派の中級下級藩士の中には過激な言動を行う者も出始め、加藤司書らは「過激な行動は慎むように」と何度か注意をしていたようです。しかし、とうとう犬鳴御別館事件をきっかけとして、藩主黒田長溥公は福岡藩内の尊王攘夷派の弾圧に踏み切ります。このまま過激な尊王攘夷に突き進めば、藩が潰されてしまう恐れがあると感じたのかも知れません。慶応元年(1865)乙丑の年の出来事なので、これを乙丑の獄(いっちゅうのごく)と呼びます。

 

加藤司書と大組の斉藤五六郎が天福寺で切腹。建部武彦と衣非茂記が安国寺で切腹。尾崎惣左衛門、万代十兵衛、森安平の三名は正香寺で切腹。その2日前の23日には、桝木屋の牢獄で月形洗蔵、梅津幸一、鷹取養巴、森勤作、江上栄之進、伊藤清兵衛、安田喜八郎、今中祐十郎、今中作兵衛、中村哲蔵、瀬口三兵衛、佐座謙三郎、大神壱岐、伊丹信一郎、筑紫衛等、あわせて15人が斬首されました。この乙丑の獄で、福岡藩は、維新後に明治新政府へ送り込む人材を一気に失ってしまうこととなりました。

 

さて、和泉屋白水楼でいつも酒宴を張っていた土佐脱藩の土方楠左衛門の耳にも加藤司書らに切腹の沙汰が下されたことが知らされます。三条実美は加藤司書とも親しくその才を惜しまれて、土方をして早馬を走らせ司書の助命に向かわせます。太宰府から天福寺(博多区冷泉)まで土方が馬を駆って夜道を走っていきます。やっとのことで天福寺門前に着到し、「三条実美様から加藤司書殿の助命の願いでござる。その切腹待たれよ」と門内に声を掛けましたが、門内からは「すでにご立派にお腹を召されました」との返答。加藤司書公は見事にご生害を遂げられたのでした。

 

毎年10月25日にはこの加藤司書公を偲ぶ法要が博多区の節信院にて行われています。乙丑の獄の関係者のご子孫、福岡藩士のご子孫などが一同に参集しまして、亡き加藤司書公や乙丑の獄で散華された藩士たちの御霊に手を合わせています。

 

このように太宰府は維新回天の原動力のひとつともなった場所で、当時の建物がそのまま残っておりますので、幕末好きな方にもぜひお勧めしたいところです。弊店では当時の床板や手すりなどをそのままご覧いただけるよう改装しています。また、薩摩藩の定宿であった松屋さんでは維新の庵として喫茶をやっていらっしゃいます(ただ、コロナ禍のため現在はお休みしているようです)。ここには西郷隆盛直筆の書状などが伝わっています。もちろん、当時の建物のまま残っています。松屋さんの向かいには日田屋があり、こちらも外側は当時のまま残っています。ぜひ、幕末の名所めぐりのひとつとして足をお運びください。

 

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平成27年節信院にて行われた法要で撮影 ※終わった後は直会です

 

 

                       

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