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維新の策動地としての太宰府 - 太宰府 梅園菓子処 - 太宰府天満宮御用達の和菓子

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維新の策動地としての太宰府

カテゴリ: 太宰府を逍遥すなるもいとをかし 作成日:2020年12月25日(金)

 今日は加藤司書傳という復刻本から太宰府に関するところを口語訳してご紹介してみたいと思います。文語調独特の言い回しや難解な語句が並びますので、敢えて意訳しているところもあります。雰囲気を楽しむ感じでお読みいただければと思います。

 

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 三条公は居室においても常に竹馬に乗って稽古に励んでいました。五卿の中でも、四条公は特に馬術に長けていらして、颯爽たる御姿で太宰府の町々を練っていました。その後、四条卿は陸軍少将となって大阪師団長を務めたことからも、その馬術がいかに秀でていたかが分かるというものです。

 

 当時、勤皇の志士はことごとく五卿の下に集まってきました。それらの志士が宿とした場所は、勤皇の志の篤い松屋孫兵衛の屋敷であって、土佐の奇傑と称された坂本龍馬もやってきました。同じく土佐藩の中岡慎太郎もやってきて、2年11ヶ月の五卿太宰府滞在中、この地にあって五卿に接して五卿のために東奔西走して勤皇のために尽くしました。

 

 日本海軍の代表者である坂本龍馬、陸軍の代表者たる中岡慎太郎、五卿を中心に影が形に添うようにしっかりとつき従っていた土方楠左衛門久元伯爵も2年11ヶ月の間、五卿に随身して加藤司書公と常に連携を取り、加藤司書公が切腹の際には五卿の助命使として早馬をもって天福寺に駆け付けました。しかしながら、時すでに遅く自刃の後ということでたくさんの恨みを飲み込んだのでした。

 

 西郷吉之助も折々松屋にやってきて、加藤司書公の策動による薩長連合のため、長州藩代表の高杉晋作や加藤司書と頻繁に会合をしていました。僧月照は西郷と一緒に太宰府に来た時、松屋に泊まって

 言の葉の花をあるじに旅寝する

  この松陰に千代も忘るな

 という和歌を宿の主人の松屋孫兵衛に与えました。王政復古の悲願がまだまだ成就できぬことを悟って、西郷とともに薩摩の錦江湾に身を投げたわけですが、高齢だった月照は錦江湾の波間に消え去り、命が助かったのは西郷だけだったという事件はこの歌を詠んだ直後のことです。

 

 <中略>

 

 こうして加藤司書の尽力によって五卿は太宰府を拠点として、各地の勤皇の志士たちは各方面から太宰府に集まってきて、王政維新の一大震源地となってこの地は大変に栄えたのです。そこで幕府は大目付の小林惇六郎を福岡藩に派遣して太宰府の五卿奪還を試みました。

 小林は30人ほどの屈強な幕臣を連れて福岡表へやってきました。これを知った福岡藩の佐幕派たちは待ちかねたように膝を打ってやはりまだまだ幕府の力が衰えてはいないと大喜びでした。これを機会に幕府に味方している公卿の親書を藩主の黒田長溥公にお示しして、一気に勤皇党を潰してしまおうと考えました。

 

 加藤司書は家老職を辞して閉門となり、幕府大目付小林惇六郎は福岡藩の勤皇党に対して圧力を加えて、さらに二日市に転進してここを拠点として五卿の奪還を計画しました。小林は「私の力で五卿のみなさまを復官させましょう」と甘言を弄して五卿をおびき出し、その途中で五卿を殺害しようと企てたのです。

 

 五卿を守る薩摩、久留米、佐賀、福岡、熊本の五藩の藩兵たちではありましたが、中には佐幕派もあれば勤皇派もありという感じでバラバラの寄せ集めでした。その中でも福岡藩は加藤司書が家老職を辞した結果、勤皇派が力を失って佐幕派が力を盛り返していた状態でした。

 土佐藩の藩兵は本願寺に陣取って、その他の藩の兵たちも「五卿は渡すわけにはいかぬ」と幕府側と対峙する状況となったのでした。

 五卿は大目付の小林惇六郎が来藩したことでこれは危ないと気づきましたが、ここからどこかに逃げることや、江戸表に送られることなどは潔くないとして、あくまでもこの場に留まって忠節に殉じて太宰府の土となるまでと決心を固められました。このようにして大目付小林惇六郎が虎視眈々と機会を伺う中、太宰府に詰めかけた勤皇派はみな奮起して幕府側と対峙したのでした。

 

 <中略>

 

 小林惇六郎は幕臣30名を率いて太宰府天満宮参拝を理由として太宰府において示威行進を行いました。この報告を受けた加藤司書は早速に五卿を護衛しようと思い立ちますが、家老職を解かれ閉門蟄居の身の上なので為す術がない状態でした。

 

 薩摩藩の大山格之介はただちに36名の砲兵と大砲3門を率いて太宰府に前進し「たとえ幕府の大目付が来られようとも五卿に指一本触れさせぬ」と空砲を二日市の小林の陣営に向けて撃ち放ち威嚇射撃を行いました。その後、大山はひとりで小林を訪ね「三条公以下五卿の太宰府滞在は将軍様の命令によって尾張総督が決定なされたことです。将軍様の命令なく小林殿が勝手に大目付の分限で五卿の身を移そうとするのは不埒な行為と断じざるを得ません。あるいは、これがたとえ将軍様の命令であっても薩摩藩として断じて五卿を引き渡すわけには参りません。五卿はすでに太宰府の土となろうと固く決意をなさっておられます。もし力づくで奪還せんとお考えであればどうぞなさってください。私たちには三門の大砲がありますので、命令一下、一撃の下に打ち破ってご覧にいれましょう」と談判を試みました。

 

 これにはさすがの大目付小林も辟易として「では、三条公以下五卿にご挨拶のみさせていただこう」となり、小林は延寿王院の正門から入ろうとしましたが許されず裏門から屋敷へと入り、五卿と面談をなされました。この際も五卿の傍では勤皇派の志士らが取り囲み、何かあれば一刀のもとに斬り捨てようと刀の鯉口を切って身構えている状態でした。そのため、小林はとうとう為す術もなく引きさがって延寿王院をあとにしたのでした。

 

 このようにして太宰府は加藤司書の思惑通りに五卿を中心とした勤皇王政復古の一大震源地となり、黒田嘉右衛門や田中光顕伯爵など京都と太宰府の間を往復しては五卿の精神を京都に伝え、勤皇派の志士たちと連携をとり、五卿らは太宰府に留まること2年11ヶ月の長きにわたったのでした。

 

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 まだまだ記述はあるのですが、あまりに長いので今日のところはこの辺りで。また機会をみてご紹介させていただこうと思います。

 

enju2

延寿王院の門

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