歴史探訪 岩屋城 – ちょっと長い
古代からその立地ゆえに太宰府は歴史がミルフィーユ状態で積み重なってきているわけですが、戦国期にも大きな注目を浴びた場所のひとつです。室町末期に周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六か国の守護を務めた大内義隆が陶隆房の謀反によって滅んだあと、古来からの貿易港である博多を擁する筑前は財力を生み出す要衝として見なされていました。
そんな中で力をつけてきたのが豊後府内を拠点とする大友宗麟。もともと鎌倉御家人という血統の良さもあり、豊後在郷の国人衆を麾下に収めて力をつけ北部九州を席捲していきました。これに対して、中国地方の覇者である毛利勢(毛利元就、吉川元春、小早川隆景)らも筑前博多を手に入れようと触手を伸ばします。このような緊迫した情勢の中、大友宗麟は加判衆と呼ばれた側近の武将たちを筑前一帯の城に分散配置してエリアとして筑前を押さえていました。
大友宗麟が筑前一帯を押さえるための拠点としたのが、糸島の柑子岳城(糸島市)、早良の安楽平城(福岡市早良区脇山)、那珂川の鷲ヶ岳城(那珂川市)、新宮の立花山城(新宮町)、太宰府の宝満山城(太宰府市)の五城でした。宝満山城には支城として岩屋城がありました。立花山城の城督は猛将と恐れられた戸次鑑連(べっき あきつら)、またの名を立花道雪(たちばなどうせつ)。そして宝満山城の城督がこちらも戦国無双の高橋紹運。この二人の部将が中心となって、攻め寄せる毛利軍や力を伸ばしてきた佐賀の龍造寺軍と戦っていたのです。
しかし、毛利勢は東部戦線で織田信長麾下の羽柴軍と戦闘状態となり、西部戦線であった博多攻略は断念せねばならなくなります。さらに大友宗麟は滅亡した尼子氏の残党を陰から支援して毛利が筑前から完全に手を引くように調略します。その結果、大友宗麟は筑前一帯を完全に掌握するに至ったのです。
この頃から、佐賀の龍造寺隆信、朝倉の秋月種実、薩摩の島津義久らが戦国武将として力を増して来ます。龍造寺は背振山を越え北上して筑前を狙い、秋月は頻繁に宝満山城を攻めて太宰府天満宮まで焼き討ちにしました。島津とは日向の耳川合戦にて手痛い敗北を喫して次第に大友宗麟の筑前筑後への支配が弱体化していったのです。
この中で抜きん出てきたのが薩摩の島津義久でした。島津北上を邪魔する龍造寺隆信を沖田畷の合戦で討ち取り、怒涛の勢いで北上を始めます。これに危機を感じた大友宗麟はすでに関白となっていた秀吉に臣従して援軍を請います。島津義久は島津忠長と伊集院忠棟に筑前攻略を命じます。島津軍は併呑した九州一円の国人衆の軍団を取り込み、宝満山城と立花山城を陥落させようと攻め寄せます。
大友宗麟からの援軍もなく孤立無援の宝満山城を守るのは高橋紹運。紹運は支城である岩屋城を前線と定めてここに籠城。実子で立花家に養子に出した立花宗茂は後ろ備えとして立花山城に立て籠もり島津軍に備えます。観世音寺を本陣とする寄せ手の島津軍はざっと5万余の軍勢、岩屋城にてこれを迎え撃つ高橋軍は763名。多勢に無勢の戦況の中、秀吉軍師の黒田官兵衛からも使者が出され、岩屋城を退き立花山城へ合流されたいとの勧告を受けますが、これを丁重に断ります。
島津軍が十重二十重と岩屋城を取り囲み、いよいよ岩屋城への城攻めが始まりました。しかし、岩屋城の守りが堅固な上に、決死の覚悟の高橋軍の抵抗は激しく、島津軍はなかなか岩屋城を攻め落とせません。攻め寄せるたびに島津軍には大きな損害が発生するようになっていきました。途中、島津義久は何度か降伏勧告を高橋紹運に行いますが、これも丁重に断ります。黒田官兵衛は岩屋城落城間近との急報を秀吉に送りますが、まだ島津征伐の準備が整っておらず軍勢は間に合いそうにあいません。
そのような中、とうとう岩屋城の水の手が切られることとなり城中では水不足が深刻となります。地元に伝わる伝承では、ひとりの老婆が島津軍に岩屋城の水の手を教えたという話も伝わっています。これ以上の籠城継続は不可能と見た島津軍は岩屋城に対して総攻撃を仕掛けます。各方面の砦が落とされ歴戦の部将が討ち死にする中、高橋紹運もみずから自刃して果て、岩屋城は落城しました。
島津軍は岩屋城を落城せしめたのち、急ぎ立花宗茂が籠る立花山城へと軍を転進させます。こちらも十重二十重と取り囲み立花宗茂に対して降伏勧告を再三行います。主家であった大友宗麟の本拠地である豊後府内も島津別動隊から攻撃され落城。万事休すという時に、やっと秀吉軍先遣隊が豊前に到着。秀吉軍まもなく到着の知らせを受けた島津軍はすぐに立花山城の囲いを解いて撤退を始めます。以後、総兵力20万の秀吉軍が押し寄せるに至って島津軍は次第に劣勢となり、義久は降伏しています。
この時、立花宗茂は秀吉からの覚えもめでたく西国無双と称えられ秀吉の直臣に取り立てられて大名となりました。この立花家はのちに柳川城を与えられ紆余曲折の後、明治まで大名として残るに至りました。
2017年、大徳寺大慈院で立花家主催による「立花宗成公ご生誕450年記念茶会」が開催され、梅園菓子処の宝満山干菓子(よろつよ)を使っていただけたのも時空を超えた不思議なご縁を感じたところです。実は筆者の先祖は安楽平城の城督であった小田部紹叱の家臣で、おそらく立花道雪や高橋紹運らとともに戦陣を疾駆していただろうと思われます。450年の時空を超えた不思議なご縁を感じた次第です。
以上、ちょっと長くなったのですが、太宰府近郊を語るにおいて岩屋城の攻防戦は外せないトピックでもありますので、記録として残しておきたいと思います。なお、内容としてはかなり端折っています。本当はまだまだ細かく精緻に書いていきたいのですが、それだと読む人がいなくなってしまいますので、心を鬼にして敢えてシンプルな筋書きにしています。正直なところ、筑紫廣門や秋月種実などとの絡みはもっとおもしろいところなのですが、またの機会に致します。
11/18大慈院イベントレポート②お茶席のお菓子(立花万起子様執筆の記事)